新シリーズ:『賢く生きよう』

 

-新約聖書に学ぶ知恵-

 

日本聖書協会新共同訳・新約聖書「ローマの信徒への手紙」

16章

 

◆個人的な挨拶

 

 16:1 ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。

 

 16:2 どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。

 

 16:3 キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。

 

 16:4 命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。

 

 16:5 また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。

 

 16:6 あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。

 

 16:7 わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。

 

 16:8 主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。

 

 16:9 わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。

 

 16:10 真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。

 

 16:11 わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。

 

 16:12 主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。

 

 16:13 主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。

 

 16:14 アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。

 

 16:15 フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。

 

 16:16 あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。

 

 16:17 兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。

 

 16:18 こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。

 

 16:19 あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。

 

 16:20 平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。

 

 16:21 わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。

 

 16:22 この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。

 

 16:23 わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。

 

 16:24わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。

 

 ◆神への賛美

 

 16:25 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。

 

 16:26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。

 

 

 16:27 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

15章

 

◆自分ではなく隣人を喜ばせる

 

 15:1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。

 

 15:2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。

 

 15:3 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。

 

 15:4 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。

 

 15:5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、

 

 15:6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。

 

 ◆福音はユダヤ人と異邦人のためにある

 

 15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。

 

 15:8 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、

 

 15:9 異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。

 

 15:10 また、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、

 

 15:11 更に、/「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。

 

 15:12 また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」

 

 15:13 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

 

 ◆宣教者パウロの使命

 

 15:14 兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。

 

 15:15 記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、

 

 15:16 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。

 

 15:17 そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。

 

 15:18 キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、

 

 15:19 また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。

 

 15:20 このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。

 

 15:21 「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。

 

 ◆ローマ訪問の計画

 

 15:22 こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。

 

 15:23 しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、

 

 15:24 イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。

 

 15:25 しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。

 

 15:26 マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。

 

 15:27 彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。

 

 15:28 それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。

 

 15:29 そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。

 

 15:30 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、

 

 15:31 わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、

 

 15:32 こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。

 

 

 15:33 平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。

14章

 

◆兄弟を裁いてはならない

 

 14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。

 

 14:2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。

 

 14:3 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。

 

 14:4 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。

 

 14:5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。

 

 14:6 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。

 

 14:7 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。

 

 14:8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

 

 14:9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

 

 14:10 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。

 

 14:11 こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」

 

 14:12 それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

 

 ◆兄弟を罪に誘ってはならない

 

 14:13 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。

 

 14:14 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。

 

 14:15 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。

 

 14:16 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。

 

 14:17 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

 

 14:18 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。

 

 14:19 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。

 

 14:20 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。

 

 14:21 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。

 

 14:22 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。

 

 

 14:23 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。

13章

 

◆支配者への従順

 

 13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。

 

 13:2 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。

 

 13:3 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。

 

 13:4 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。

 

 13:5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。

 

 13:6 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。

 

 13:7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。

 

 ◆隣人愛

 

 13:8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。

 

 13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。

 

 13:10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

 

 ◆救いは近づいている

 

 13:11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。

 

 13:12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。

 

 13:13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、

 

 13:14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。

 

 

 

12章

 

◆キリストにおける新しい生活

 

 12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

 

 12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

 

 12:3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。

 

 12:4 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、

 

 12:5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。

 

 12:6 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、

 

 12:7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、

 

 12:8 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

 

 ◆キリスト教的生活の規範

 

 12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、

 

 12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。

 

 12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。

 

 12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。

 

 12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。

 

 12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。

 

 12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

 

 12:16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。

 

 12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。

 

 12:18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。

 

 12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

 

 12:20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」

 

 

 12:21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

11章

 

◆イスラエルの残りの者

 

 11:1 では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。

 

 11:2 神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。

 

 11:3 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」

 

 11:4 しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。

 

 11:5 同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。

 

 11:6 もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。

 

 11:7 では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。

 

 11:8 「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。

 

 11:9 ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。

 

 11:10 彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」

 

 ◆異邦人の救い

 

 11:11 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。

 

 11:12 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。

 

 11:13 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。

 

 11:14 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。

 

 11:15 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。

 

 11:16 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。

 

 11:17 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、

 

 11:18 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

 

 11:19 すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。

 

 11:20 そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。

 

 11:21 神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。

 

 11:22 だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。

 

 11:23 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。

 

 11:24 もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。

 

 ◆イスラエルの再興

 

 11:25 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、

 

 11:26 こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、/ヤコブから不信心を遠ざける。

 

 11:27 これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、/彼らと結ぶわたしの契約である。」

 

 11:28 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。

 

 11:29 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。

 

 11:30 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。

 

 11:31 それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。

 

 11:32 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。

 

 11:33 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

 

 11:34 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。

 

 11:35 だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」

 

 

 11:36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

10章

 

 10:1 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。

 

 10:2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。

 

 10:3 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。

 

 10:4 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

 

 ◆万人の救い

 

 10:5 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。

 

 10:6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。

 

 10:7 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。

 

 10:8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

 

 10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。

 

 10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

 

 10:11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。

 

 10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。

 

 10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

 

 10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。

 

 10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。

 

 10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。

 

 10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

 

 10:18 それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。

 

 10:19 それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。

 

 10:20 イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。

 

 

 10:21 しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

9章

 

◆イスラエルの選び

 

 9:1 わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、

 

 9:2 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。

 

 9:3 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。

 

 9:4 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。

 

 9:5 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。

 

 9:6 ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、

 

 9:7 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」

 

 9:8 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。

 

 9:9 約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。

 

 9:10 それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。

 

 9:11 -12その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。

 

 9:13 「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。

 

 9:14 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。

 

 9:15 神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。

 

 9:16 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。

 

 9:17 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。

 

 9:18 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。

 

 ◆神の怒りと憐れみ

 

 9:19 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。

 

 9:20 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。

 

 9:21 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。

 

 9:22 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、

 

 9:23 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。

 

 9:24 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。

 

 9:25 ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。

 

 9:26 『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」

 

 9:27 また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。

 

 9:28 主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」

 

 9:29 それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、/わたしたちはソドムのようになり、/ゴモラのようにされたであろう。」

 

 ◆イスラエルと福音

 

 9:30 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。

 

 9:31 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。

 

 9:32 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。

 

 

 9:33 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

8章

 

◆霊による命

 

 8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。

 

 8:2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。

 

 8:3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。

 

 8:4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。

 

 8:5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。

 

 8:6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。

 

 8:7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。

 

 8:8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。

 

 8:9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。

 

 8:10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。

 

 8:11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

 

 8:12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。

 

 8:13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

 

 8:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

 

 8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

 

 8:16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

 

 8:17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

 

 ◆将来の栄光

 

 8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。

 

 8:19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。

 

 8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。

 

 8:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

 

 8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。

 

 8:23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

 

 8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。

 

 8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

 

 8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

 

 8:27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

 

 8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 

 8:29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。

 

 8:30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

 

 ◆神の愛

 

 8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。

 

 8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

 

 8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。

 

 8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 

 8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

 

 8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。

 

 8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。

 

 8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、

 

 8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 

 

 

 

7章

 

◆結婚の比喩

 

 7:1 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。

 

 7:2 結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。

 

 7:3 従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。

 

 7:4 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。

 

 7:5 わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。

 

 7:6 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

 

 ◆内在する罪の問題

 

 7:7 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。

 

 7:8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。

 

 7:9 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、

 

 7:10 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。

 

 7:11 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。

 

 7:12 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。

 

 7:13 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。

 

 7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。

 

 7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。

 

 7:16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。

 

 7:17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

 

 7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。

 

 7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。

 

 7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

 

 7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。

 

 7:22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、

 

 7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。

 

 7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

 

 

 7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

6章

 

◆罪に死に、キリストに生きる

 

 6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。

 

 6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

 

 6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。

 

 6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

 

 6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

 

 6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

 

 6:7 死んだ者は、罪から解放されています。

 

 6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

 

 6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。

 

 6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

 

 6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 

 6:12 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。

 

 6:13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。

 

 6:14 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

 

 ◆義の奴隷

 

 6:15 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。

 

 6:16 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。

 

 6:17 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、

 

 6:18 罪から解放され、義に仕えるようになりました。

 

 6:19 あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。

 

 6:20 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。

 

 6:21 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。

 

 6:22 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。

 

 

 6:23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

5章

 

◆信仰によって義とされて

 

 5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

 

 5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

 

 5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、

 

 5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

 

 5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

 

 5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。

 

 5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。

 

 5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 

 5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

 

 5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

 

 5:11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

 

 ◆アダムとキリスト

 

 5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

 

 5:13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。

 

 5:14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。

 

 5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

 

 5:16 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。

 

 5:17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

 

 5:18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。

 

 5:19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

 

 5:20 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。

 

 

 5:21 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。

4章

 

◆アブラハムの模範

 

 4:1 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。

 

 4:2 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。

 

 4:3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。

 

 4:4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。

 

 4:5 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。

 

 4:6 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。

 

 4:7 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。

 

 4:8 主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」

 

 4:9 では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。

 

 4:10 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。

 

 4:11 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。

 

 4:12 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。

 

 ◆信仰によって実現される約束

 

 4:13 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。

 

 4:14 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。

 

 4:15 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。

 

 4:16 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。

 

 4:17 「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。

 

 4:18 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。

 

 4:19 そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。

 

 4:20 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。

 

 4:21 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。

 

 4:22 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。

 

 4:23 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、

 

 4:24 わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。

 

 

 4:25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

3章

 

3:1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。

 

 3:2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。

 

 3:3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。

 

 3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。

 

 3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。

 

 3:6 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。

 

 3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。

 

 3:8 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。

 

 ◆正しい者は一人もいない

 

 3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。

 

 3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。

 

 3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。

 

 3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。

 

 3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。

 

 3:14 口は、呪いと苦味で満ち、

 

 3:15 足は血を流すのに速く、

 

 3:16 その道には破壊と悲惨がある。

 

 3:17 彼らは平和の道を知らない。

 

 3:18 彼らの目には神への畏れがない。」

 

 3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。

 

 3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 

 ◆信仰による義

 

 3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。

 

 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

 

 3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、

 

 3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 

 3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

 

 3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 

 3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。

 

 3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

 

 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。

 

 3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。

 

 

 3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。

2

 

◆神の正しい裁き

 

 2:1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。

 

 2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。

 

 2:3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。

 

 2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。

 

 2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。

 

 2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。

 

 2:7 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、

 

 2:8 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。

 

 2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、

 

 2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。

 

 2:11 神は人を分け隔てなさいません。

 

 2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。

 

 2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。

 

 2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。

 

 2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。

 

 2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

 

 ◆ユダヤ人と律法

 

 2:17 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、

 

 2:18 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。

 

 2:19 -20また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。

 

 2:21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。

 

 2:22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。

 

 2:23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。

 

 2:24 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。

 

 2:25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。

 

 2:26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。

 

 2:27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。

 

 2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。

 

 

 2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

 

1章

 

◆挨拶

 

 1:1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――

 

 1:2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、

 

 1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、

 

 1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。

 

 1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。

 

 1:6 この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――

 

 1:7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 

 ◆ローマ訪問の願い

 

 1:8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。

 

 1:9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、

 

 1:10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。

 

 1:11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。

 

 1:12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。

 

 1:13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。

 

 1:14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。

 

 1:15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

 

 ◆福音の力

 

 1:16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

 

 1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 

 ◆人類の罪

 

 1:18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。

 

 1:19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。

 

 1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。

 

 1:21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。

 

 1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、

 

 1:23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

 

 1:24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。

 

 1:25 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。

 

 1:26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、

 

 1:27 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。

 

 1:28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。

 

 1:29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、

 

 1:30 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、

 

 1:31 無知、不誠実、無情、無慈悲です。

 

 

 1:32 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。