《今日のみ言葉》

LOSUNGEN『日々の聖句』

2021年7月6日(火)

 

◎今日の聖句

ローマ書9章14-23節

 

9:14 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 9:15 神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。 9:16 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。 9:17 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。 9:18 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。

 ◆神の怒りと憐れみ

 9:19 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。 9:20 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。 9:21 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。 9:22 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、 9:23 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。

 

◎今日の一言

人は神への信仰を持つ時単なる超越者と理解する。しかしパウロは神と人間を陶器と陶器師のたとえをもって語る。造られた者が造った方に口答えすることはできない。むしろ創造者に感謝することが優先する。しかも神は憐れみの器にご自身の豊かな栄光を与えようと準備しておられたと言う。創造者なる神を知って初めて生かされている恵みを悟ることができるのである。聖書の神を知らざる者にはただただ不平と呟き最後は諦めの人生で終わってしまう。しかし信仰者は逆境にあっても感謝することを忘れない。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録16章16-22節

LOSUNGEN『日々の聖句』

  2021年7月5日(月)

 

◎今日の聖句

   ガラテヤ書1章13-24節

 

1:13 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。 1:14 また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。 1:15 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、 1:16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、 1:17 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。 1:18 それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、 1:19 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。 1:20 わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。 1:21 その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。 1:22 キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。 1:23 ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、 1:24 わたしのことで神をほめたたえておりました。

 

◎今日の一言

ユダ教徒としてキリスト教徒を殺害していたパウロが復活のキリストに出会って回心し、180度の方向転換をしてキリストの伝道者となった。ユダヤ教の会堂で福音を宣べ伝える姿を誰が快く受け入れるだろうか。しかしこのパウロの回心によりキリストの福音は異邦人世界へと広められ、世界史を変える働きをすることとなった。キリスト者は福音の力を軽く見てはならない。どこにおいても伝道的熱意を捨ててはならない。神の宣教に加担するものとなることが私達の使命である。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録16章6-15節

LOSUNGEN『日々の聖句』

2021年7月4日(日)

 

◎今日の聖句

ルカ福音書5章1-11節

 

◆漁師を弟子にする

5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 

◎今日の一言

ゲネサレト湖畔はガリラヤ湖の別名である。イエスがシモン・ペトロとゼベダイの子ヤコブとヨハネを弟子とした記事である。彼らは漁師であったがユダヤ人として待ち続けたメシアに出会ったのである。彼らはイエスとの出会いを通じて人生最高に価値あるものを獲得した。それはナザレのイエスのもたらした神の国の福音であった。福音の働きは今日においても変わりはない。福音における新しい人との出会いが人生をより価値あるものと変える。これが福音的出会いである。それはコロナの時代においても同様である。

 

 

☆通読聖書 : Ⅰコリント書1章18-25節

LOSUNGEN『日々の聖句』

  2021年7月3日(土)

 

◎今日の聖句

  ヨナ書4111

 

4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。4:2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。 4:3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」 4:4 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」 4:5 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。 4:6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。 4:7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。 4:8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」 4:9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」 4:10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 4:11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

 

◎今日の一言

この最後もまたヨナ書の見事な圧巻である。ニネベに行くことを拒んだヨナであったが、彼は最後の最後まで不平を漏らす。一夜にして枯れたとうごまの木を惜しむヨナに神はニネベの町が滅びることを願うことは神のみ旨ではないと諭す。神の言葉を受け入れて悔い改めたニネベの町が滅ぶことを願う者はいないと語る。ヨナのタルシシへの逃亡と枯れたとうごまの木の悔しさの経験は神のこの一言によって帳消しにされ祝福に変えられる。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録15章36-16章5節

LOSUNGEN『日々の聖句』

 2021年7月2日(金)

 

◎今日の聖句

 フィリピ書2章15

 

◆キリストを模範とせよ

2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

 

◎今日の一言

パウロは人間関係を破壊するものは利己心であり虚栄心であると明言する。二千年前も今日も同様である。常にキリストに倣って愛と赦しの心が求められる。平和な時代も混乱した世の中でも隣人愛は社会の原点である。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録15章13-35節

LOSUNGEN『日々の聖句』

2021年7月1日(木)

 

◎今日の聖句

 Ⅰコリント書12章19-26節

 

12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。12:23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。12:24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。12:25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。  

 

◎今日の一言

『キリストの体は一つ』 使徒パウロはキリストの愛の業を通して教会はキリストの体であり愛(アガペー)の共同体であることを証しした。罪赦された人の共同体は常にキリストと共に新しくされた人間として一つの体に属する。キリスト教会がその歴史的実証である。信仰者は常に祈りをもってその交わりに連なっていることを感謝している。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録15章1-12節

LOSUNGEN『日々の聖句』

 2021年6月30日(水) 

 

◎今日の聖句

 マルコ福音書11章22-26節

 

11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。 11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」11:26もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。

 

◎今日の一言

キリスト者はイエスの生きざまに倣って信仰生活を続ける。自己の栄光ではなく神のみ心に従って公平無私の人生を生きる。神の働きは山を動かすと言う。その働きを体験する者は最高の人生を歩む事となる。

 

 

☆通読聖書 使徒言行録14章20-28節

LOSUNGEN『日々の聖句』

 2021年6月29日(火) 

 

◎今日の聖句

Ⅱコリント書2章5-11節

 

◆違犯者を赦す

2:5 悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。 2:6 その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。 2:7 むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。 2:8 そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。 2:9 わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。 2:10 あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。 2:11 わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。

 

◎今日の一言

コリントの教会には信徒の対立による分裂の危機があった。しかしパウロは教会の一致のために赦しの手紙を書いた。サタンは常にほほえみをもって人を惑わし、気が付いた時にはとりかえしのできない事態となっていることが多い。信仰者は常にサタンの誘惑に心しなければならない。金銭問題、異性問題個人的嗜好等今日もサタンの常套手段である。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録14章1-20節

LOSUNGEN『日々の聖句』

 2021年6月28日(月) 

 

◎今日の聖句

  ガラテヤ書6章1-5節

 

◆信仰に基づいた助け合い

6:1 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。 6:2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。 6:3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。 6:4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。 6:5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。

 

◎今日の一言

世の中には自己顕示欲の強い人が成功すると考えるが決してそうではない。成功者としては柔和な人の方が多いかもしれない。しかし日常において高く評価される人は互いに重荷を担い自己の責任を果たす人である。手抜きする人は信頼されることがないゆえに決して成功者にはなれない。パウロは人をよく見ている。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録13章44-52節

LOSUNGEN『日々の聖句』

 2021年6月27日(日) 

 

◎今日の聖句

  ルカ福音書6章36-42節

 

6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。

 ◆人を裁くな

6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」 6:39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 6:40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。 6:41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。6:42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

 

◎今日の一言

イエスの山上の説教である。『偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。』 偽善者とは仮面を被っている人であり二心の者である。イエスはそのような人の人生は呪われていると言う。そしてまず自分の眼の中にある丸太を取り除けと言われる。そうしたら兄弟の眼にあるおが屑を取り除けることができると。厳しい言葉だが真実である。

 

 

☆通読聖書 : ローマ書12章17-21

 LOSUNGEN『日々の聖句』

     2021年6月26日(土) 

 

◎今日の聖句

  ヨハネ福音書1章19-28節

 

◆洗礼者ヨハネの証し

1:19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 1:20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 1:21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 1:22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 1:23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」 1:24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 1:25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 1:26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 1:28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 

◎今日の一言

『わたしはその履物のひもを解く資格もない。』 バプテスマのヨハネがメシアであるナザレのイエスに対して理解していた言葉である。クムラン洞窟で発見された死海写本で有名なエッセネ派の共同体で厳格な倫理規定に従って共に過ごした時期があったと言われるが、彼らがそこを出て民衆の中で悔い改めを迫ったことは今日においても求められることである。規準無き社会の立て直しは聖書的律法の見直しによって行われる。倫理にもとる退廃文化からは再生の力は湧いてこない。練達の後に希望が湧いてくるのである。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録13章26-43節

LOSUNGEN『日々の聖句』

      2021年6月25日(金)   

 

◎今日の聖句

   マタイ福音書10章26-33節

 

◆恐るべき者

10:26 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。 10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。 10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 10:30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 10:31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 ◆イエスの仲間であると言い表す

10:32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。 10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

 

◎今日の一言

イエスの教えは明確である。『二羽の雀が一アサリオンで売られている。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。』人はこれを運とか偶然と理解する。しかし信仰者はすべて神の必然において成り立っていると理解する。これは大きな認識の相違である。神を知る者は人々を恐れない。神の業には正義と真実があるからである。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録13章13-25節

LOSUNGEN『日々の聖句』

    2021年6月24日(木)  

 

◎今日の聖句

 ルカ福音書1章57-66節

 

◆洗礼者ヨハネの誕生

1:57 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。 1:58 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。 1:59 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。 1:60 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。 1:61 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、 1:62 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。 1:63 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。 1:64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。 1:65 近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。 1:66 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。

 

◎今日の一言

今日はバブテスマのヨハネ祭である。ヨハネが誕生した時父ザカリヤは次のように歌った。『幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。』

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録13章1-12節

LOSUNGEN『日々の聖句』

 2021年6月23日(水) 

 

◎今日の聖句

  ミカ書7章7-9節

 

7:7 しかし、わたしは主を仰ぎ/わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。

 ◆新しい約束

7:8 わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光。 7:9 わたしは主に罪を犯したので/主の怒りを負わねばならない/ついに、主がわたしの訴えを取り上げ/わたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれ/わたしは主の恵みの御業を見る。

 

◎今日の一言

預言者ミカはイザヤと同時代の人であるが今日のテキストの前には悲しみの事実が述べられている。主の慈しみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなったと言う。更に隣人を信じてはならない、息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家のものだと言う。何と悲しい現実であるか。しかしミカは『たとえ闇の中に座していても主こそわが光』と言う。神に生きる者の希望がここにある。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録12章1-25節

LOSUNGEN『日々の聖句』

 2021年6月22日(火)

 

◎今日の聖句

 士師記10章6-16節

 

◆イスラエルの罪と罰

10:6 イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行い、バアルやアシュトレト、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。彼らは主を捨て、主に仕えなかった。 10:7 主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らをペリシテ人とアンモン人の手に売り渡された。 10:8 敵は、その年から十八年間、イスラエルの人々、ヨルダンの向こう側ギレアドにあるアモリ人の地にいるすべてのイスラエルの人々を打ち砕き、打ちのめした。 10:9 アンモン人はヨルダンを渡って、ユダ、ベニヤミン、エフライムの家にも攻撃を仕掛けて来たので、イスラエルは苦境に立たされた。 10:10 イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。「わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしたちの神を捨て、バアルに仕えました。」 10:11 主は、イスラエルの人々に言われた。「エジプト人、アモリ人、アンモン人、ペリシテ人、 10:12 シドン人、アマレク、マオンがあなたたちを圧迫し、あなたたちがわたしに助けを求めて叫んだとき、わたしは彼らの手からあなたたちを救ったではないか。 10:13 しかし、あなたたちはわたしを捨て、他の神々に仕えた。それゆえ、わたしはもうあなたたちを救わない。 10:14 あなたたちの選んだ神々のもとに行って、助けを求めて叫ぶがよい。苦境に立たされたときには、その神々が救ってくれよう。」 10:15 イスラエルの人々は主に言った。「わたしたちは罪を犯しました。わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。ただ、今日わたしたちを救い出してください。」 10:16 彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになったので、主はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった。

 

◎今日の一言

士師とは漢語で裁判官、裁き司を意味する。旧約士師記は英語のjudge(裁判官)である。イスラエルにまだ王が誕生する以前神の召命を受けた指導者たちが民を導いた。有名なギデオン、サムソンに代表される。しかし多くのユダヤ人らはバアルやアシュトレト、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えて主を捨て、主に仕えなかったという。しかし彼らが悔い改めた時ヤハウエの神はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった、とある。世に悪がはびこった時信仰者は主を告白し悔い改めることが求められる。神が苦しむ誠実な信仰者の姿がある。キリストの十字架である。十字架はキリストが苦しまれたのみならず、ナザレのイエスが誠実にメシアの道を歩まれることにより神が苦しまれたのである。神の痛みが述べられる。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録11章19-30節

LOSUNGEN『日々の聖句』

  2021年6月21日(月)

 

◎今日の聖句

  ルカ福音書7章36-50節

 

◆罪深い女を赦す

7:36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。 7:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、 7:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。 7:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。 7:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。 7:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。 7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」 7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。 7:44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。 7:45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。 7:46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。 7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 7:48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。 7:49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。 7:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

 

◎今日の一言

イエスが行った罪の赦しこそメシアとしての最高の業である。人はその罪の赦しを法律に法って裁きを受けても心のわだかまりは消えない。しかし絶対者の執り成しを受けるならばたとい世俗の法や社会的審判を受けても心は晴れやかである。イエスの権威は世俗の法を遥かに超えている。すべての事柄は神の権威を知って確定されなければならない。残念だが日本には世俗を超える聖書的宗教的権威は生きていない。神の権威に生きる者は唯キリスト者だけである。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録11章1-18節

LOSUNGEN『日々の聖句』

  2021年6月20日(日)

 

◎今日の聖句

  ルカ福音書15章11-32節

 

◆「放蕩息子」のたとえ

15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 

◎今日の一言

有名な放蕩息子のたとえである。常に疑問の思われるのは、どこまで弟の自由が許されるのか、兄と弟の関係はその後はどうなったのかとの問いである。しかしそれらの疑問は生きて帰った来た父の喜びに比べれば深刻な疑問ではない。その後の兄弟が更に対立していたのでは福音的証しにならない。弟は深く悔い改め、兄もまた恵まれた日々の境遇に自分を取り戻したに違いない。父の愛情は第三者には理解されない。人は常に本心に立ち返って、生かされている事の喜びに感謝することが求められている。愛あるところに喜びの道が開かれる。

 

 

☆通読聖書 : Ⅰテモテ書1章12-17節

LOSUNGEN『日々の聖句』

          2021年6月19日(土)    

 

◎今日の聖句

   ヨナ書2章1-11節

  

◆ヨナの救助

2:1 さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。 2:2 ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、 2:3 言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと/主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると/わたしの声を聞いてくださった。 2:4 あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み/波また波がわたしの上を越えて行く。 2:5 わたしは思った/あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。 2:6 大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。 2:7 わたしは山々の基まで、地の底まで沈み/地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ/あなたは命を/滅びの穴から引き上げてくださった。 2:8 息絶えようとするとき/わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き/聖なる神殿に達した。 2:9 偽りの神々に従う者たちが/忠節を捨て去ろうとも 2:10 わたしは感謝の声をあげ/いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。 2:11 主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。

 

◎今日の一言

『オー・マイ・ゴッド! 俺はクジラの口の中にいるじゃないか』 これは611日米国で起きた本当の話。ロブスターを取っていた潜水漁師がザトウクジラに食べられた話。ヨナの物語はBC7世紀頃の地中海での話、二人とも巨大な魚に飲み込まれたが助かった。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいたと言う。三日間死の支配下に置かれたキリスト体験の先駆けであろう。ヨナは息絶えようとしたとき主のみ名を唱えた。これが彼の救いとなった。不思議なことだが神の奇跡である。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録10章24-48節

LOSUNGEN『日々の聖句』

  2021年6月18日(金)

 

◎今日の聖句

 ヨハネ福音書6章37-40節

 

6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 

◎今日の一言

メシアとして来臨されたキリスト・イエスの働きは信じる者に永遠の命を与え終わりの日に復活させることであると言う。大胆な宣言であるが人は必ず納得のいく価値ある人生を生きたいと願うものであるがその確証がここにある。人はすべて空虚な死を遂げる者ではない。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録10章1-23節

LOSUNGEN『日々の聖句』

  2021年6月17日(木) 

 

◎今日の聖句

 マタイ福音書15章29-39節

 

◆大勢の病人をいやす

15:29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。 15:30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。 15:31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。

 ◆四千人に食べ物を与える

 15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」 15:33 弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」 15:34 イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。 15:35 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、

 15:36 七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。 15:37 人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。 15:38 食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。 15:39 イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。

 

◎今日の一言

奇跡物語は聖書を読む者にとって信じがたい事として躓きになる。しかし聖書はその事実を記し書き換えられたりはしない。多くの人々の躓きになっても福音の働きは語り継がれる。善いものを求め続ける人々には奇跡は起きる。7つのパンと魚による4千人の饗宴はこの善きものを共有する人々によって体験された報告である。苦難の時代にも善きものを見続ける人々には必ず奇跡が起きる。それが聖霊の業であり教会の働きである。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録9章32-43節

LOSUNGEN『日々の聖句』

     2021年6月16日(水)  

 

◎今日の聖句

  ヨハネ福音書4章5-14節

 

4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。 4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 

◎今日の一言

イエスがサマリアの井戸端で出会った一人の女との場面。日中、人目を忍んで水を汲みに来たこの女性はつらい過去を持ち、人々も彼女を白い目で見ていた。しかしイエスは飲み水と共に魂を癒す永遠の命の水を与える話をした。彼女は悩みの中にも深い信仰を持っていた。かつて「井戸端の女」という有名なフォークソングにも歌われた物語である。ナザレのイエスがメシアと知って女性は人々に福音を伝える働きをしたと言う。実に希望溢れる出会いの体験である。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録9章19-31節

LOSUNGEN『日々の聖句』

 2021年6月15日(火)

 

◎今日の聖句

出エジプト記2章11-15節

 

◆エジプトからの逃亡

2:11 モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。 2:12 モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。 2:13 翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめると、 2:14 「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った。 2:15 ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。

 

◎今日の一言

かつてモーセはエジプトの女王によって川の中から救い出された者であったが成人になった時同国民がエジプトの兵士から暴力を受けている場面に遭遇した。モーセはユダヤ人同胞を助けたが、翌日ヘブライ人の二人は互いに争うのを止めた。王家の者として育ったモーセは同胞を助けることを考えていたがシナイの麓にまで逃げた。主の証しは最初に主を畏れることであると認識した。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録9章19-19節

LOSUNGEN『日々の聖句』

 2021年6月14日(月) 

 

◎今日の聖句

  箴言9章1-10節

 

◆知恵の勧め

9:1 知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。 9:2 獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え 9:3 はしためを町の高い所に遣わして/呼びかけさせた。 9:4 「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」意志の弱い者にはこう言った。 9:5 「わたしのパンを食べ/わたしが調合した酒を飲むがよい 9:6 浅はかさを捨て、命を得るために/分別の道を進むために。」

 ◆格言集

9:7 不遜な者を諭しても侮られるだけだ。神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。 9:8 不遜な者を叱るな、彼はあなたを憎むであろう。知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。 9:9 知恵ある人に与えれば、彼は知恵を増す。神に従う人に知恵を与えれば、彼は説得力を増す。 9:10 主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。

 

◎今日の一言

聖書は単に宗教的経典というよりはユダヤ・キリスト教史の5千年に亘る知恵の宝庫である。これを学び取ることが人生成功の秘訣である。その内最も重要なことは『主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め。』という言葉を深く学ぶことである。聖書は決して嘘をつかない金塊である。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録9章1-9節

LOSUNGEN『日々の聖句』

  2021年6月13日(日)  

 

◎今日の聖句

  ルカ福音書14章16-24節

 

14:16 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、 14:17 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。 14:18 すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。 14:19 ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。 14:20 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。 14:21 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』 14:22 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、 14:23 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。 14:24 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

 

◎今日の一言

イエスが語ったたとえ話の一つである。宴会が始まっても出席すると返事しながらそれぞれに理由をつけて欠席したと言う。あってはならないことだが事情によっては断らざるを得ない場合もあろう。しかし福音への招きは断ってはならない。イエスの招きには必ず大きな出会いがあり生活の喜びがある。福音的出会いと交わりはかけがえのない人間関係を生みだす。これが私達の生活を立てる力となる。「人生は出会いで決まる」との言葉がある通りである。

 

 

☆通読聖書 : エフェソ書2章17-22節

LOSUNGEN『日々の聖句』

  2021年6月12日(土) 

 

◎今日の聖句

 ヨナ書1章1-16節

 

◆ヨナの逃亡

1:1 主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。 1:2 「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」 1:3 しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。 1:4 主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。 1:5 船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。 1:6 船長はヨナのところに来て言った。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」 1:7 さて、人々は互いに言った。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」そこで、くじを引くとヨナに当たった。 1:8 人々は彼に詰め寄って、「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」と言った。 1:9 ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」 1:10 人々は非常に恐れ、ヨナに言った。「なんという事をしたのだ。」人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。 1:11 彼らはヨナに言った。「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか。」海は荒れる一方だった。 1:12 ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」 1:13 乗組員は船を漕いで陸に戻そうとしたが、できなかった。海がますます荒れて、襲いかかってきたからである。 1:14 ついに、彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」 1:15 彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった。 1:16 人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。

 

◎今日の一言

ヨナ書は4章からなる小さな預言書であるがユダヤ・キリスト教世界では老若男女を問わず愛されよく読まれてきた書である。且つ又ヨナの体験がユニークでおもしろい。30年前、ヤッファの港に立って地中海を眺めながらヨナの働きを学びつつ宣教への熱意を燃やしたことが懐かしい。大きな使命から逃げ出したくなる心境はだれしも同じであるが、神に拘わることならば必ず神は成し遂げられる。自分の罪の結果嵐に巻き込まれることは良くある。しかしそれが正義に連なる時神は命まで奪い取ることはなさらない。大きな魚に飲まれたヨナ゙の心境はいかばかりであったか。暗黒の中でも神の御手はヨナを支えられる。ニネベは大都会である。大都会の病魔の中でも神は救いのみ手を差し伸べられていることを実感する。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録8章26-40節

LOSUNGEN『日々の聖句』

      2021年6月11日(金)   

 

◎今日の聖句

 エレミヤ書20章7-11節

 

◆エレミヤの告白

20:7 主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。 20:8 わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません。 20:9 主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。 20:10 わたしには聞こえています/多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆/わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて/我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。 20:11 しかし主は、恐るべき勇士として/わたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき/勝つことを得ず、成功することなく/甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのない/とこしえの恥辱である。

 

◎今日の一言

自国の破滅を予告し非国民とののしられたエレミヤは非難のどん底で神への信頼を崩さない。福音的自由と民主主義の根底には必ず確固たる神への信仰が確保されている。この信仰のない自由と民主主義は虚構であり妥協である。それは国家を滅ぼし国民を犠牲にする。福音的自由と民主主義はたとい自己が犠牲に晒されようとも、起こりうる諸矛盾に対して耐える力と改革への勇気を備えている。戦争中にエレミヤに学んだ多くの知識人信仰者は祈りをもって困難に耐え信仰を証しした。

 

 

☆通読聖書 : 使徒言行録8章4-25節