5月メッセージ(桜台教会『月報5月号』より)

『折が良くても悪くても、御言葉を宣べ伝えなさい。』

  (新約聖書 テモテへの手紙Ⅱ 4章2節)

                牧師 中川  寛

    使徒パウロはキリスト教信仰の基本は救いにあずかった信仰者の証しと伝達の言葉によって伝承されるものであると語る。それ故『信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。』と語り、『実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ10:1417)と記す。その中核となるものが初代教会以来継承されてきた「使徒信條」であり「信仰告白」である。それが「三位一体の神信仰」として教会が保持してきたものである。

 

    聖書を読み学んでその信仰の内容を知ることなしに正しい信仰は得られない。信仰告白に基かない信仰は異端であり幻想である。ところがキリスト者は洗礼を受けてキリスト信仰を告白するまでは熱心に聖書を読み、説教をよく聞くが、数年たつと月に一度の聖餐式を守ることで安心し、やがて多くの信者は教会生活を卒業してしまう。そして結果的には相対的に宗教はどれも皆同じであるとのぬるま湯に浸って十字架の福音を軽んじ贖罪信仰の恵みを捨ててしまうのである。やがて人は「困った時の神頼み」と言われる自己の都合に応じた安易な信仰生活へと堕落して行くこととなる。

 

 

   新約聖書では使徒パウロの書いた手紙の中、テモテ第1,第2書とテトス書を牧会書簡と呼び、若い伝道者に教会形成を前提に具体的な福音的信仰のあり方を教えている。神の家族としての信仰者の交わりの姿を身に着けることが教会員の務めであることは今も昔も変わりがない。例えば第1テモテ書5章ではこう記される。『老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。』と言う。聖書による福音信仰は『折が良くても悪くても、メシア・キリストを証し、宣べ伝える。』ことにあるのです。

4月イースターメッセージ (桜台教会『月報4月号』より)

  『復活信仰、それは勝利の証し』 

 

              牧師 中川  寛

 

『「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」』

    (新約聖書 ルカ福音書 22章 31-34節)

 

 

     『キリストは甦られた!』 と告白するキリスト者は幻想を生きる者と言えるだろうか。共観福音書を通じて告知されていることは、ゴルゴダの丘で処刑されたナザレのイエスは死後新しい園の庭に埋葬されたと言う。アリマタヤの議員ヨセフが準備したもので、イエスを慕っていた婦人たちもその埋葬を見届けた。然し週の初めの日、すなわち処刑された日の三日後の朝早く婦人たちがその墓に行ってみると石が開いており、納められたはずの墓は空で主イエスの遺体は無かった。聖書はその後復活の主は婦人たちに出会われたと記している。その後キリストは弟子達や主イエスを信じた者たちに出会われ、「キリストは甦られた」と広く伝えられることなった。

 

   復活信仰は誰にでも受け入れられるものではない。しかしキリスト者はその事実を信じている。一般の人々が亡くなった後、「また天国でお会いしましょう」と慰めの言葉を語るのとは事情が違う。ルカ福音書は主イエスが最後の晩餐を終えた後、ペトロにこう語った。『シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」』(22:31-34) 厳しい言葉であるが深い愛(アガペー)に満ちたイエスの言葉である。ペトロは鶏鳴を聞くたびに罪を自覚した。 ペトロは復活の主に再会したくはなかった。彼はキリストが蘇えられたと伝えられただけで海に飛び込み、身を隠した。しかし彼はAD64年、ローマの大火でネロ皇帝迫害の下、逆さ吊りの十字架刑を受けて殉教した。

 

 

   キリスト者はキリストの復活信仰を持って罪の赦しを願い、深い心の傷を得ていても十字架のキリストによる贖罪を受けて新しい希望に生きる。聖書が語る福音による新しい希望に生きるのである。その根拠は十字架による犠牲の愛に留まらず、復活のキリストによる赦しの愛である。甦られたキリストは人間の心の深み、罪深さを承知して、新しい人生に生きる希望の力を添えられる。人の悪は自分の力では拭い去れない。払いきれない負債は復活のキリストによる希望において清算されるのである。それ故にキリスト者は「キリストは復活された」と信じ、告白する。そこには新しい可能性が約束されているからである。

3月メッセージ(桜台教会『月報3月号』より)

『十字架上の七つの言葉より』

 

         牧師 中川  寛

『ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。』

         (聖書 ルカ福音書 23章 32-43節)

 

 

 使徒パウロはⅠコリント書の始めに以下の様に記します。『十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。』 (1:18212223) そして福音書の十字架の場面で有名な七つの言葉が教えらる。

 

 コロナの影響下とウクライナ戦争により世界は更に不安を増加し、今年の受難節も各地でデモが多発している。自然災害と共に経済の不安定は人々の生きる不安を増し、凶悪犯罪を増加させている。しかし希望を失ってはなりません。正義を行う勇気を保持しなければなりません。何よりもサタンの誘惑に打ち勝つ力を持つことが求められています。

 

 十字架の言葉は罪と暴力、裏切りと反逆に打ち勝たれた勝利者キリストの励ましの言葉です。マタイ福音書に引用された『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』の言葉は詩編22編の苦しみを克服した福音的勝利の祈りの言葉ですが、キリストはその最後の時にも自らを神の勝利に身をゆだねて『主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく助けを求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、わたしは大いなる集会であなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。』(22:2526)と神への感謝を唱えられました。

 

 十字架の言葉の強さとその力はキリスト者の信仰生活においても遺憾なく発揮される。十字架上で語られた『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』(ルカ23:34)との言葉は全被造物に対する贖いと執り成しのことばです。この言葉は十字架のキリストを仰ぐすべての人々に神の愛と赦しの真実を伝えています。罪なき神の御子が自分の救いの為ではなく私とあなた、全世界の生きる神無き人々の為に救いの真実を現わすものとなる。

 

 現代は自己の保全と生活の確保のためにすべての人々が自己優先し、他者への愛を無視し排斥する時代と言える。特に弱者、敗者が見捨てられる時代で、私達に向けられた十字架の愛のゆえに平和共存の道を確保しなければなりません。アガペーと言われるキリストの自己犠牲の愛は世界が暗くなってもその聖なる輝きは決して失われることはありません。福音的教会はこのキリストの十字架上の言葉に生かされて地上に建てられているのです。

 2月メッセージ (桜台教会『月報2月号』より)

 

  幸せな日々を過ごしたい人は、悪から遠ざかり、

   善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。』 

      

         (新約聖書 Ⅰペトロ書 3章 10-11節)

 

                  牧師 中川  寛

 

 2月に入り、早やウクライナ戦争も丸一年を迎える。世界は戦争へと向かっているのだろうか。決して世界大戦へと向かわせてはならないが、平和への保証はない。世界大戦はハルマゲドンから起きると予測されるが、イスラエル、パレスチナ紛争も楽観できない。イランとの対立やパレスチナの活動に暗躍する過激集団の振る舞いは表には現れない。アジアの紛争も他人事ではない。混乱に乗じて軍事的覇権を獲得するために、紛争地域の争いが更に拡大される勢いである。キリスト者はひとえに世界の平和を願う祈りを強化しなければならない。世界を牛耳ると言われるロスチャイルド一族には原点に立ち返って万民の幸福実現のためにその使命を果たしてもらいたい。神を畏れぬ傲慢な働きが世界をさらに不幸へと向かわせる。悲しいことだが無力な個々人には成す術を持たずと言うべきか。

  

 しかし聖書は旧約の時代から貧しい者への福音が告げられている。人はしかし皆公平に死んでゆく。この定められた枠組みに置いて人の生死の自由が語られているが、その根本はみな『たった一度の人生であるから、幸せに生きたい。』との望みを持ち続けるのである。メシア待望の旧約時代には詩編、知恵書を通じて人々に呼びかけられていた。

 

 『喜びをもって生き 長生きして幸いを見ようと望む者は

  舌を悪から唇を偽りの言葉から遠ざけ悪を避け、

  善を行い 平和を尋 ね求め、追い求めよ。』 

            (詩編34:13-15)

 と記される。

 

 新約時代のキリスト者も同じ言葉を信仰の教えとして継承している。旧約時代には見なかったメシアによる贖罪の事実をキリストの十字架によって確認し、偽善からは平和も喜びも生まれないことを教える。

 

 神学生時代、戦前熊野義孝先生との座談会を持ったとの話から終戦後獄死した三木清著『パスカルにおける人間の研究』を読んだ。今日では固い文筆ですぐに読む人も少ないと思うが、三木がフランス在住中執筆した処女作である。キリスト教文化を背景に熟読すれば最も大切なものがアガペー(キリストの贖罪愛)であり、信仰がなければすべて人生は『偽戯』(いぎ)であると教える。神なき人間にとって人生は虚偽であり戯れに過ぎず、独り善がりの自己満足にすぎないことが語られている。今日普遍妥当性を持つ人生の『幸福』を追求する人はいないかも知れないが、矢張りどんな苦境に立たされても人としての誠実さを捨ててはならず、神の愛と赦しを得て、誠実に平和を求めて生き続ける事が世界を明るくする近道であると思わせられる。

 

 

 

2023年 1月メッセージ  (桜台教会『月報1月号』より) 

 

   『今、私は立上がると主は言われる』 

                        

                      牧師 中川  寛

 

  旧約聖書 詩編 12編1-9節

 

  【指揮者によって。第八調。賛歌。ダビデの詩。】

『主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え 人の子らの中から 信仰のある人は消え去りました。 人は友に向かって偽りを言い 滑らかな唇、二心をもって話します。 主よ、すべて滅ぼしてください 滑らかな唇と威張って語る舌を。彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたし たちに主人などはない。」 主は言われます。「虐げに苦しむ者と 呻いている貧しい者のために 今、わたし は立ち上がり 彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」 主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。 主 よ、あなたはその仰せを守り この代からとこしえに至るまで わたしたちを見守ってくださいます。 主に逆ら う者は勝手にふるまいます 人の子らの中に 卑しむべきことがもてはやされるこのとき。』

        

  

 

  2023年の年頭に当たり、丸3年に及ぶコロナ感染症の激しい勢力に立ち向かう日常の生活と、昨年2月24日以来開始されたロシアによるウクライナへの武力侵略の継続、その影響下で世界経済の圧迫が各国の民衆の生活を不安へと向かわせ、さらには多くの為政者や特権階級の欺瞞的威力により世界全体の庶民生活を不安へと駆り立てている現状を見聞きするに及んで、日常生活に暗雲立ち込める厳しい新年を迎える事となった。今や宗教家が偽善的甘言をもって民衆に真理の言葉を語ることにはだれ一人聞く耳を持たないであろう。しかしそれでも力強い聖書の言葉が私達を育み育てる。世界がその信頼すべき言葉を見失っても教会から発せられる聖書の言葉は変わりなき神の言葉である。主の教会に託された聖書の言葉は学べば学ぶほど深遠な福音の力をキリスト者の生活に啓示するものであることを教える。

 

   旧約の詩編はメロディーが欠落した讃美と祈りの言葉であるが、その言葉は真実を語っている。12編は讃歌であるが偉大なイスラエルの王ダビデの名に寄せて伝えられる。イスラエルの悲惨な歴史を経る中で歌われ読まれ続けたきたものである。その言葉は初めから本心を語る。

 

 『主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え 人の子らの中から 信仰のある人は消え去りました。人は友に向かって偽りを言い 滑らかな唇、二心をもって話します。主よ、すべて滅ぼしてください 滑らかな唇と威張って語る舌を。彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」』

 

  偽善の支配する日常で聖書は語ります。『「虐げに苦しむ者と 呻いている貧しい者のために 今、わたしは立ち上がり 彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。主よ、あなたはその仰せを守り この代からとこしえに至るまで わたしたちを見守ってくださいます。主に逆らう者は勝手にふるまいます 人の子らの中に、卑しむべきことがもてはやされるこのとき。』 

 

     聖書と共に生きるキリスト者は混乱の日々の中にも創造者であり贖罪者である福音の導きを確信しています。ある人はこの不況は10年続くと言います。コロナによる第八波はすでに始まっていると言われ、感染者の免疫力を低下させる様々な害悪が後遺症を産むと語られます。悲しいかな既に私は多くの友人に先立たれてしまった。しかし聖書に生きた人々の勝利の人生は今年も私達を慰めてくれる。

 

 

12月メッセージ (桜台教会『月報12月号』より) 

 

       『神の御子は第一の者』 

 

新約聖書 コロサイの信徒への手紙 1章15-23節

 

1:15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 1:16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 1:17 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。 1:18 また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。 1:19 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、 1:20 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。 1:21 あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。 1:22 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。 1:23 ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。

 

  コロナ感染症の蔓延以来3年目のクリスマスを迎える。ウクライナ・ロシアの戦争はまだ終わりが見えない。経済的不況もさらに悪化し、識者は10年続くと言う。否、日本の繁栄も今後百年は見通しが立たないと言う者まで出始めた。今後しばらくは暗い時代が続くことを皆が予測している。しかしそれ以上に悲しいことは文化的人間の退廃である。似非宗教により、本来人を幸せに導くはずの宗教が社会不安を駆り立てている。

 

  初代教会は似非宗教と戦い、福音の真理を証しした。コロサイの教会は今のトルコ中西部に位置する古代の小都市であるが、使徒パウロの指導の下に、悪しき世の諸々の霊力の偽善性を指摘し、御子イエス・キリストの福音的実体を明らかにした。ストイケイア(もろもろの悪しき霊)と言われる偶像礼拝が醸し出す間違った実体のない霊力を信じて人々が再び罪の支配に落ちて行く姿を指摘した。『偽りの謙遜と天使礼拝にふける者が幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思いあがっている』(2:16)と言う。世を支配する諸々のストイケイアによって惑わされていると勧告する。『これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。』と言う。福音的教会の教えはこう語る。『御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。』(1:13-16)と。

 

  十字架上の贖罪の言葉 『その時、イエスは言われた。父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです』(ルカ2334) これが、見える世界における福音の実体です。それ故に信仰者は新しい思いをもってキリストと共に自由な人として新しい道を生きることができます。『あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。』 (3:12)

 

 

 皆様の上にクリスマスの祝福と平安を祈ります。

11月メッセージ (桜台教会『月報11月号』より)

 

『神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い』 

 

                牧師 中川  寛 

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章21-25節

 

 『1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚か  な手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。 1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 

 

  聖書によればコリント教会の混乱は今の時代以上に悲惨な状態であったと思います。使徒パウロがこの手紙を残したことによって、初代教会以来福音の恵みに生きる主の教会に不動の価値を見いだすことができるのです。聖書66巻に啓示された福音の根拠がくまなく描写されています。真理と正義が求められる混乱期を再び平和と希望の世界に建て直すのは聖書の力です。それは常にキリストの言葉、福音に依拠しています。

 

  コリントの知恵と文化の繁栄はギリシャ文明に由来します。ローマ帝国時代にもその存在は地中海全体を含み、今日のトルコ・中東一帯にまで及びます。エーゲ海一帯の文明の広がりはヨーロッパの歴史の基礎をなすもので、文化的価値は今日も世界遺産として残されています。その主幹をなすのはキリスト教文明で、特に信仰的遺産は世界の福音的信仰に立つ教会において継承されているのです。日本はまだその信仰的遺産を十分に享受するには至っていませんが、百五十年前からの文明開化がその証しです。しかし日本文化の近代化も様々な残滓が消化されず、戦後77年経った今日もその障害を引きずっています。真に人生を肯定する福音の喜びを共有することができないのです。聖書的にはまだ罪の赦しが深く自覚されていないからだと言えます。

 

  パウロは『世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。』(1:21-24)と記しています。 通常人は信頼できる何かを持たないで生きることはできません。無手勝流は虚無に支配され死を生きていると言います。「色即是空」と言われる通りで、人は空しく死をもって人生を終えます。しかしキリスト者はキリストの復活と共に死後もなおキリストと共に自己の救いの完成目指します。これが贖罪信仰の強さです。中学時代に『神なき教育は知恵ある悪魔を作る』と教えられた教育は真実でした。人は神を認識することはできませんが、聖書を通して神に出会い、何が起きても希望と喜びの日を過ごすことができるのです。神の弱さは人よりも強いのです。

 

 

10月メッセージ  (桜台教会『月報10月号』より) 

 

   『今や、恵の時、今こそ、救いの日』 

                        

                      牧師 中川  寛

 

  新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章1-10節

 

『わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、 人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。』

 

   混乱の時代、9月に二つの国葬が執り行われた。いみじくも聖書的信仰による国家形成を成し遂げた大英帝国エリザベス二世の国葬と日本国元首相安倍晋三氏の国葬であった。安倍元首相の死は宗教団体「旧・世界基督教統一神霊協会」信者の息子による犯行であった。敢えて牧師として二つの国葬の形態に優劣を付けるつもりはない。人間はすべていづれの時にか死を迎え、この世を去って行くのであるから各種各様の葬儀があってよい。安倍元首相の国葬は讃美歌を歌う訳でもなく政府が行う儀式であり、生前の故人を偲び、死後の平安を願う共同の「お別れ会」の感が深い。献花の際、陸海空自衛隊音楽隊演奏の送葬曲が演奏され、中には教会で演奏される曲もあった。しかしそれらは故人の冥福を祈る「お別れ会」の装飾ではなかったかと思わせられる。

 

  エリザベス二世の葬儀は9月8日のスコットランドでの逝去の日からロンドン・ウエストミンスター寺院での19日の国葬の日まで、英国民が棺の安置された宮殿・国会ホールや礼拝堂まで愛された君主として、同時にヘンリー8世以来の信仰の擁護者として英国国教会の首長としての責任を担われ、国民から慕われた生涯であった。スコットランド長老教会牧師が忠実な信仰者としてのエリザベス二世を讃えた。ウエストミンスター大司教も私達が用いる聖書を朗読し、新たに選ばれたリズ・トラス首相が聖書を読んでいた。英国の首尾一貫したキリスト教伝統による葬儀の進行は贖罪者イエス・キリストと共なる栄光の希望へと導くものであった。

 

   使徒パウロは確信をもってコリントの教会の人々に教えている。『わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。』 金銭の多寡でしか人生を諮れない人間の有り様は余りにも空しい。その根本に一人一人の魂を救済するキリストの十字架と贖罪の福音を心柱として打ち立てることが求められている。福音的信仰に嘘はない。聖書を今深く学ぶことが求められる。

 

 

9月メッセージ(桜台教会『月報9月号』より)

 

  『悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

 

                      牧師 中川  寛

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 12章9-21節

『◆キリスト教的生活の規範

 12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 12:16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。 12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 12:18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 12:20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 12:21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。』

 

  キリスト者の信仰が如何に価値あるものであるか。聖書を通して真理が証しされ、福音的信仰の確かさが次々に明らかにされているように思う。コロナ感染第七波、ロシア・ウクライナ戦争継続と世界経済の不安、物価高騰、平和な日常の生活を脅かす金銭目的の似非宗教団体によってさまざまな不幸が生起する。多少の誤解を受けつつも、福音主義に立つ聖書と信条(信仰告白)を通してキリストの教会の勝利の姿を目の当たりにして、文化の織り成す神なき世界の悪しき現象が次々に明らかにされる。十字架による贖罪信仰の確かさが勇気と希望を生み出す力になっていることは正統キリスト者にとってまず誇りとすべきことである。

 使徒パウロが記したローマ書は創世記にあるアダムとエヴァの罪の物語を打破する福音の書であり、その内容は全宇宙を包含している。人は自由に読書できるが真理を獲得する為には深く専門的神学を習得した牧師の手ほどきを受けなければ学ぶことができない。人間理解の根源的根拠をイスラエルの歴史になぞらえて、ナザレのイエスのメシアであることを説いている。宗教改革を経たプロテスタントキリスト教の信仰がどれ程大切なものであるかを知らなければ、それは人間の歴史を学び取ることでもあるが、時空を超えた永遠なるものに触れることはできない。

 残念なことだが明治維新以来近代化の道を歩んできた日本の諸大学で西洋に見られる神学部を設けなかったことが不安定な文化の揺らぎを設けてしまったのである。哲学もまたギリシャ一辺倒では意味をなさない。ユダヤ・キリスト教的文化が学び取れない学問的研究では人類を幸せに導く原理を提示しえない。概念的には相対化して物事を理解しようとする志向は分裂と対立を生じさせるだけであり、宥和と統合をもたらす要素を持つことはできない。福音的原理は聖書的贖罪論を経ているがゆえに未来を拓く力を保持しうるのである。

 18世紀以降『キリスト教の絶対性』を問うことが比較宗教学的に研究されたが、パウロのローマ書を学ぶならば、キリスト教を超える論拠を見い出すことができない。それらは同時に人間の生み出す文化の諸問題であるのみならず、各人の全人的存在としての生の価値を意義付けるものでもある。最高善は贖罪のキリストにあるとの明確な信仰こそ万物を価値あるものとすることができるのである。キリスト者はこの信仰によって悪に打ち勝つ勝利の人生を生きることがとができる。肉の人間を常に導くものは聖霊の力であり正しい神の言葉によることが教えられる。

 

 

8月メッセージ(桜台教会『月報8月号』より)

 

  『福音の勝利』       牧師 中川  寛

 

聖書の言葉より

『◆神の愛   8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。 8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。 8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 8:36 「わたしたちは、あなたのために 一日中死にさらされ、 屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。 8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。』 

         (新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章31-39節)

 

 

  1517年のM.ルターによる宗教改革運動はいわゆる『新教プロテスタント』と呼ばれるキリスト教会の改革運動であった。その改革の三大原理と呼ばれるものは『信仰義認』『聖書のみ』『万人祭司』と名付けられる。長い中世の伝統に従って継続されてきた教皇無謬説に立つカトリック教会の教説に疑問を突きつけ、行き過ぎた権威主義が大きく修正されることになった。その新しい運動はカトリック教会に対抗(プロテスト)した伝統の破壊者集団と誤解されるが、欧米では『福音主義者』と呼ぶ。即ち『福音主義』とは『新教プロテスタント』を意味した。創世記に描写されるアダムとエヴァの堕罪(人間の罪)は新約聖書に証言される贖罪の恵みを受ける事によって新生の体験をするというものである。ナザレのイエスの十字架の死を通して甦りを告白するところに真の慰めと新たに生きる力を得ることができる。その福音を受け入れて生きる者がキリスト者である。

 

  使徒パウロはこのキリストに触れて『わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(8:38-39)と激白する。『信仰義認』はこの信仰を悔い改めの洗礼において告白することで人はキリスト者とされる。人は行いによって義とされるのではない。もちろん進んで悪を行うことに救いがあるのではない。人を苦しめたり悲しませることに救いがあるはずがない。万民救済の事実がこの十字架のキリストにあることを聖書を通して再発見したのが宗教改革者達であった。

 

   『教会』はエクレシアと呼ばれキリストの体を意味する。一般に用いられる「統一教会」はおよそキリスト教会とは似て非なるまがいものである。神学的素養の無い日本人はキリスト教と名が付くだけですべて同じものと誤解し、教会と言うだけで特別の集団と理解するが、これもまた無知から来るごまかしである。荘厳な感性を体験するだけですべてを『聖なる世界』と騙されるのである。それ故にプロテスタント教会は聖書66巻を正典とし、あらゆる飾り物を排除し救いの根拠を限定したのである。

 

  生まれながら罪人である人間はキリストの贖罪を受けて初めて自由な人とされ、万民が平等な者となる。福音を体験した者は自己の魂の根拠をキリストの赦しの愛に置く。教皇、司教、牧師が権威者なのではない。神の権威は十字架のキリストに啓示されている。それは正統な信条を告白する教会と福音に根ざして生きるすべての信仰者によって証しされる。これらを理解することが今求められている。

 

 

7月メッセージ(桜台教会『月報7月号』より)

『主の書の尋ね求め、読んで見よ』

    (旧約聖書 イザヤ書 35章1-10節)

 

                牧師 中川  寛

 

  預言者イザヤはこう語る。『弱った手に力を込めよろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。(35:3-5)

 

  北王国イスラエルはBC722年北の大国アッシリヤの侵略を受け滅亡するが、その危機のただ中にあってイザヤはヤハウエの働きを確信する。周囲の町々はすでに滅ぼされ、やがて南のエドムにも災いが下る。『刺し貫かれた人々は投げ捨てられ 死骸は悪臭を放ち 山々はその血によって溶ける。その土地の貴族たちには もはや、王国と名付くべきものはなく 高官たちもすべて無に帰する。 その城郭は茨が覆い その砦にはいらくさとあざみが生え 山犬が住み 駝鳥の宿るところとなる。荒野の獣はジャッカルに出会い 山羊の魔神はその友を呼び 夜の魔女は、そこに休息を求め 休む所を見つける。ふくろうは、そこに巣を作って卵を産み 卵をかえして、雛を翼の陰に集める。そこに鳶も、雌も雄も共に集まる。(34:312-15) イザヤの務めは悲劇の日常においても主の言葉を語ることであった。

 

  この悲劇の原因はどこから生じたのか。ヤハウエの権威は地に落ちたのか。それとも神の語られた言葉はすべて虚偽、まやかしであったのか。多くの人々は事態が深刻さを増して初めて気付くのだが、それまでは神の言葉など真剣に受け止めはしなかった。しかし世界は常に危機にさらされている。知恵ある人々は伝承された言い伝えを日常生活に生かして生活していることだろう。破局は常に日常の不意を突いて突然やってくる。キリスト者は常に生かされて生きていることを想起しなければならない。 

 

  イザヤはインマヌエルの勝利を疑わなかったが、同時に自然の背後に神による回復を心に留めていた。神は新しい力をもって罪を告発し神への純真な心に目を止めておられるのである。

 

 

  コロナ感染症の悪夢と共に、ロシア・ウクライナ戦争の世界に及ぼす有形無形の危機、物価高騰と経済的危機、相互信頼の喪失と弱者の悲劇等々。もう嫌なニュースは聞きたくない。参議院選挙への務めは果たしたいが、平和と安全の確保がどこまでできるのか不安が募る。

6月メッセージ(桜台教会『月報6月号』より)

『神の正義と公平』 -たゆまず善を行いましょう-

    (聖書 ガラテヤ人への手紙5章16-26節)

 

                牧師 中川  寛

 

  使徒パウロの戦闘書簡と呼ばれるガラテヤ書は「信仰による義」、すなわち「キリストによる十字架信仰」の正統性と共にその信仰の勝利の姿を鮮明に教える。人は二つの見えない力によって支配されている。その一つは自己愛から出る「肉の思い」であり、第二は「キリストによる神の霊」である。

 

  彼は5章ではっきり断言する。

  『わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。』(5:16-23) 

 

  実に確信をもって明白にその形を区分して生まれながらの人間の生きる姿を断罪し、悔い改めをもってキリストの名による洗礼を受けた聖霊に生きる人との違いを教えている。そして最終章では『思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。(6:78)と語る。

 

  キリスト教信仰は深い人間論によって論証される。コロナ感染症の危機にも自然災害の恐怖にも、戦争犯罪の進行においてもこの人間論は変わらない。人間の倫理・道徳を支配する各自の価値判断の基準はまさしく聖書が語る神の正義と公平に基づいて判定されねばならない。悲しいかな世界の指導者においてもこの価値基準が肉による平和をもたらすか悪を招来するかを知らない。キリストの贖罪愛(アガペー)に生きる人々は善意と誠実に身をゆだねて生きる。パウロは自らペンをとり大きな字で『今、時間のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって神の家族になった人々に対して、善を行いましょう。』(6:10)と書いている。 

 

 

  聖霊降臨(ペンテコステ)の善き時に明るい福音の光明を各自の心に獲得することが、暗い社会と人生を払しょくする唯一の手立てであることを体験しましょう。

 5月メッセージ(桜台教会『月報5月号』より)

 

『世に打ち勝つ勝利』 -それはわたしたちの信仰です-

 

                牧師 中川  寛

 

 『神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

             (聖書 Ⅰヨハネ書 5章4-5節)   

 

   コロナ禍、自然災害、戦争、事故事件等々。私達を取り巻く環境は世界を見渡しても確かな希望と喜びを発見することは難しい。悔しいかな21世紀の近代世界が様々なところでほころび出したと言うべきです。しかしそれにも拘らず私達信仰者は聖書の福音に生き、喜びと希望を得ています。

 

   紀元一世紀、ヨハネ書簡が書かれた時代も危機と試練の時代でした。エルサレムはローマ帝国に滅ぼされ、イスラエルの全土は荒廃に帰し、初代のキリスト教指導者たちは殉教の死を遂げ、第二第三世代のキリスト者たちが異教の価値観と信仰に惑わされて福音の真理が損なわれる危機を経験していました。十字架の主、ナザレのイエスをメシアと信じて神の国の出現を待ち望みつつ信仰生活を維持することも困難な状況が各地に展開されます。ローマ帝国下においてはネロ皇帝からドミティアヌス帝の大迫害に至るまでその迫害の様子は世界史にも記載されています。教会内には様々な異端信仰がはびこり、グノーシス(知識偏重)に従って神の子キリストの十字架を否定する教えや唯物主義に走る生活の乱れが生じます。キリストの贖罪を信じる福音的信仰が様々な誘惑に晒され、教会までも福音を見失い信仰の確信が得られない危機が支配します。

 

   キリスト者たちは迫害の嵐に晒されて各地に離散しますが、同時に小さな共同体を作り、福音宣教に邁進します。指導者たちは迫害を逃れつつも修道院を形成しその信仰の正しさを継承します。カッパドキアの洞窟教会に代表されるようにやがてコンスタンチヌス大帝の登場を待って313年ミラノの勅令によりキリスト教信仰が国家の中心に置かれることとなります。

 

 

   激しい迫害の時代、著者長老ヨハネの弟子と言われるスミルナノの主教ポリュカルポスは高齢の身で火刑に処せられましたが、死の直前「私はナザレのイエスを信じて今日まで来たが、今まで主は一時も私を見捨てられたことはなかった」と告白して息を引き取ったと言われています。混乱と迫害の中で殉教の死を遂げた多くの信仰の先達を覚えることにより確かな聖書の信仰を身に着けることができます。まず十字架上のキリストの言葉に耳を傾けることです。『人々はイエスを十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」』 (ルカ23:34)人はこの言葉によって真の魂の目覚めが引き起こされます。熱心な信心も多少の成果を得ることができるでしょう。しかし十字架の言葉が最後に人生の勝利をもたらします。この信仰がある限り、私達の人生は敗北に終わることはありません。

  4月メッセージ(桜台教会『月報4月号』より)

 

  『私は生きていると主は言われる』

          -エゼキエルの叫び-

 

 (聖書 エゼキエル書18章21-25節)

 

                牧師 中川  寛

 

  『わたしは誰の死も喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。』(18:30)と預言者エゼキエルは神の言葉を取り次ぐ。バビロン捕囚を経験したイスラエルの民にとって民族の誇りも神への信頼も悉く打ち砕かれ、枯れた骨の塊に過ぎなくなった同朋の現実を前に預言者はなお希望を捨てない。破局を招いた責任がすべてイスラエル人の罪の結果ではあっても、彼らが悔い改めるならば生きる道が開かれると言う。エゼキエルはそのことによって神の選びの責任も果たされると言う。 

 

  突如ロシアの侵攻により引き起こされたウクライナ戦争の悲惨さを前に、彼らの血の中にユダヤ人のDNAが刷り込まれていることを思う時、単なる同族紛争を超えて、彼らの歴史的生存の意図がはかなく消し去られたように感じる。なぜ同じユダヤ系DNAを持つ同族が、かくも悲惨な戦争で殺しあわねばならないのか、極東の島国に住む日本人には簡単に理解できることではないが、人間の罪の深さを思い知らされる。

 

  エゼキエルは『悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。』(18:2122)と言う。しかし父と同じく罪に走った者はその罪のゆえに生きることはできないと記す。

 

  彼らの文化と歴史を支えてきた教会は何をしているのか、どうなっているのかと問い糺したい思いである。80年前の第二次世界大戦で経験したあの悲惨な戦争が文化的には成長発展した21世紀であるにも拘らず、日々目の当たりにする戦禍の実態は何とも情けない限りである。恨みを果たさねばと考える怨念の深さに唖然とさせられる。何千もの遺体を入れた袋を山積にしたまま荼毘に臥す順番待ちをしなければならない映像は、コロナ禍の犠牲者以上に人間の無力さを感じさせられる。

 

  戦争犯罪者達の成育歴は不明であるが、幼児期から受けた不安と悲しみの体験はアラブに見る如く反逆の憎悪が渦巻く死の連鎖のみ拡大されて、平和形成の力にはならないのである。罪の不条理を克服する道は信仰による否定媒介の弁証法的自己否定に立ち返らなければ希望を見い出すことはできない。過去の軋轢を晴らす自己肯定的世界観は結果的に世界を破滅に導く以外に、何一つ肯定的な善の力を発揮することができないのである。

 

  創造者なる神を畏れる心を持たない唯物主義者には主観的な自己肯定の感性だけが生きる手立てであって、他者への愛と憐れみは持合わせていない。

 

 

3月メッセージ(桜台教会『月報3月号』より)

 

『老人は夢を見、若者は幻を見る』

 

 (聖書 ヨエル書3章1-5節、

        使徒言行録2章17-21節)

 

                牧師 中川  寛

 

  ヨエル書は12小預言書の4章からなる短い書物であるが、その前半においてはイナゴの大群が襲来し人々の生活が荒廃すると予告する。それは終わりを知らせる恐ろしい日であり、主の怒りの日と呼ばれる。ついに破滅の日が来ると言う。食物が断たれ、牧草が枯れ、水が枯渇し荒れた草地は炎に包まれると言う。戦争がはじまり犯罪がはびこり、天体もかすむと言う。楽天的に生きてきた人々は足元をすくわれ、まじめに生きてきた人々も共に恐怖を感じると言う。或いは世紀末か、全世界が破局を迎えると言うのである。祭司が神殿の入り口で熱心に祈りを捧げても、信仰者の回復さえもままならないと言う。主の恐るべき日は避けることができないのである。

 

  イスラエルの歴史においてBC722年アッシリア帝国の襲来により北王国イスラエルは滅亡し、ユダヤの10種族は歴史から消された。引き続き586年には南王国のユダはバビロン捕囚を経験した。その後もパレスチナはペルシャの支配とギリシャ、ローマによって征服されイスラエルの独立はままならず、離散の民として苦難の歴史を辿った。

 

  何時まで続くか予想のつかないコロナ感染症の危機の中、ロシアによるウクライナ侵攻により世界の人々も共に苦難のるつぼに放り込まれてしまった。コロナと核と生活困窮の三重苦が世界を脅かせている。ウクライナの危機はチェルノブイリをはるかに上回る原子力発電所へのミサイル攻撃により全ヨーロッパは想像し難い恐怖に支配されることとなった。

 

  事態はロシアとウクライナだけの事ではない、すでにロシアと共同体制を取る中国による台湾攻勢も時間の問題と言われる。G7を含め民主主義を標榜する西側諸国はすでに東アジアの軍事的体制を整えていると言う。人間の悪がもたらす最大の不幸がコロナ感染症に引き続いて大胆に惹き起こされようとしている。しかしキリスト者はその信仰に導かれて正義と真実をもって前進するのである。

 

 

  ヨエルは危機の時代においても神の霊に生きる人々に救いの道と逃れの場を提供すると言う。神と共に歩む老人は夢を見ると言う。絶望の中にも希望の未来を描くことができる。老人は過去を振り返って嘆くのではなく、家族と共に神が与える新しい世界を見続けるのである。すべてのものを失っても信仰者は神にある夢を見る事が求められる。信仰はなお老人に夢を与える。若者には困難を超えてヴィジョンを持たせる。若者の見る幻はまだ未確定なものかも知れない。しかしメシア(キリスト)と共にあるヴィジョンを捨ててはならない。神は必ず道を開いて下さる。主の名を呼ぶものは皆、救われると約束される。

2月メッセージ(桜台教会『月報2月号』より)

 

『信心のために自分を鍛えなさい』

 

     (聖書 テモテへの手紙Ⅰ 4章6-16節)

 

             牧師 中川  寛

 

   使徒パウロは若い同労者テモテに宛て二度に亘る手紙を書いた。使徒として福音に生きる心得を具体的に語る。それは今日信仰生活を続けるキリスト者にとっても大事な教会生活の教導書である。まずパウロは教会について『神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。信心の秘められた真理は確かに偉大です』と述べ、キリストへの福音信仰を明確にする。『キリストは肉において現れ、霊において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。』(3:16)と告白する。その上で、テモテに対して『俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。』(4:7.8)と言う。

 

   キリスト教信仰は修業を積み苦行を重ねることによって得られるものではない。それは『イエスは十字架に掛かり、私達に代って罪を担い贖罪の死を遂げられた。』というキリスト教の固有のメッセージから来る。本来咎められ、責められるべき罪人のわたしがその死によって罪赦され、生かされていることを感謝して受け入れると言う恵みの賜物である。キリストの贖罪死によって純粋な神の愛を知り、その恵みに応えて生きることが信仰の原点なのである。この福音の言葉は『真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。(4:9)とパウロが語る。

 

   すべての宗教的教義の中で、歴史的史実としてキリストの贖罪に優る神の愛の啓示は存在しない。福音的キリスト教会はこのキリストの十字架による贖罪死に徹頭徹尾固着する。そして『これらのことを命じ、教えなさい。あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。』(4:11.12)と教える。

 

 

   コロナ・オミクロン株のパンデミックにより驚くべき感染者数の増加となった。人々は宗教的不安を覚え、一時の平安を得るために諸宗教の信心に走る。しかし聖書はその宗教的偽善性を見抜いてる。福音がどこにあるか、救いの確かさは何によって獲得されるか、真の魂の平安はどのようにして得られるか、パウロはガラテヤ書で『しかし、今は神を知っているのに、なぜあの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。』(ガラテヤ4:9)と問いかける。福音的教会の信仰は聖書が教える『三位一体の神』が、私達の唯一の拠り所となるのです。

2021年1月メッセージ (桜台教会『月報1月号』より)

 

 『互いに重荷を負い合いなさい』

 

    (聖書 ガラテヤの信徒への手紙 6章2-10節)

 

          牧師 中川 寛   

 

   武漢コロナ発症以来コロナ脅威は丸3年目を迎えた。新年の喜びも程々に引き続き先行き見えない生活の不安を覚えるが、同時にこの危機の時代にこそ信仰の知恵が求められる。使徒パウロは小アジアのガラテヤに住む人々に福音に生きる決意を語る。そして『めいめいが、自分の重荷を担うべきです。』と勧める。パウロの信仰的戦いはローマ帝国の強圧と土着文化の偏狭の中で信仰の仲間からの敵意と背信に苛まれつつキリストへの福音的信仰の確信に立って宣教の使命に生きた事である。今日の荒涼としたローマ帝国時代の遺跡を見るにつけ、パウロの生きた時代の文化の繁栄と民衆の熱狂的退廃の足跡が観てとれる。

   

   13世紀末より勢力を拡大させたオスマントルコによってかつてのビザンチン文化は破壊されたが、ローマ帝国以来続く文明の足跡は石作りの競技場、水道橋、劇場跡の遺跡を見るだけでもその文化の繁栄の様子が伺われる。しかし今やトルコの荒涼とした山々は歴史の残滓と思われる荒れた野山が散在している。千年の、否五百年の歴史の推移は見事に遺跡として結晶化されている。

  

   歴史は人間の活力によって形成される足跡ではあるがその根本は各文化の持つイデオロギーであり価値基準が大きく左右する。聖書はその根本を語る。使徒パウロはこの点を指摘する。『思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。』(6:78) と言う。人生は日々刻刻、自己の下す価値判断によりその結果を生きた足跡として残す。民族なり国家の足跡がその組織を歴史として残すのである。具体的には形を成したものは時と共に劣化し崩壊するが、文書として、つまり生きたことばとして継続するものは後の時代に評価されることではあるが、人類に貢献する文化形成の力を発揮することとなる。これが聖書の語る『福音の力』である。従ってパウロは『自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。』と教える。信仰は神への見えない情熱である。キリスト信仰は十字架の贖罪愛に対する各人の魂の応答である。それ故に『たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。(6:9)と教えるのである。

  

 

   新年が必ずしも希望の年とはならないかも知れない。世界の不況と不安は更に増加するであろう。しかし聖書のメッセージは永遠に生きる道を私達に示す。贖罪者キリストへの信仰に嘘、偽りはない。

12月メッセージ (桜台教会『月報12月号』より)

 

 『これがあなたがたへのしるしである』

 

    (聖書 ルカによる福音書 2章8-20節)

 

          牧師 中川 寛   

 

  ルカ福音書は旧約預言者イザヤが予告したインマヌエル預言の言葉『それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。』(イザヤ7:14)と言われた通り、キリスト誕生を知らせる降誕物語において羊飼いたちに『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』(ルカ2:12)と語った。イザヤの時代から700年を経てメシア誕生の事実を確認した聖書の民は今日も同様にその事実に変わりないことを知っている。

 

  クリスマスは神の御子メシア誕生の事実を共に感謝する喜びの祝祭である。新型コロナの2年に及ぶ感染症蔓延は漸く収束の時を迎えたと感じさせていたが、この度新たなオミクロン型の発生により三年越しの対策強化へと緊迫感を漂わせている。主要各国も南ア他9か国からの乗客は入国禁止措置を取った。今夏のコロナ感染症蔓延による緊急事態宣言を想起させる状況となり、一挙に経済活動への不安と社会的停滞への喪失感が高まった。すでに英国では初めて日本人選手が出場するので、楽しみにしていた国際試合(バーバリアンズ対サモア戦)も開始70分前に中止された。サモアの選手団は中止になったピッチに出て「シバタウ」を演じ国歌を歌ったとの事、ニュージーランドを代表するバーバリアンズとの決戦をぜひ見たいと願った多くのラグビーファンもさぞ残念であったと思う。

 

 

  預言者イザヤはアッシリアによるイスラエル滅亡の危機に際し、それでもなお希望を捨てることなく詩編11822節の『捨てられた隅の親石』と共に『わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石 堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。』(28:16)と語った。使徒パウロはその信仰を受けて更に『そのかなめ石はキリスト・イエス御自身である。』(フェソ2:20)と教えた。 『しるしとしてのかなめ石』を持つ人々は世界情勢がどうであれクリスマスを喜ぶ。『これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。』(118:23.24)と歌う。多くの人々が死に追いやられ、生活の基盤を失い、移民として新天地を求めて移動する。大混乱の渦中にある私達はそれでもなお『確かなしるし』を持つ者としてメシアの誕生を喜び、共に救いと感謝、祈りと奉仕を続けなければならない。詩編の作者はこの喜びをこう締め括る。『祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。』(118:26)。困難の中ではあるが私達は今年も御子の誕生を祝うクリスマスに感謝しよう!

11月メッセージ (桜台教会『月報11月号』より)

 

 『光の子として生きる』

 

    (聖書 エフェソの信徒への手紙 5章6-14節)

 

        牧師 中川 寛

 

  昨年の3月から新型コロナ感染症による緊急事態宣言が出され漸く収束の兆しが見えたように感じるが、世界の感染状況にはなお厳しいものがある。 しかしなお東京都の感染者数が30名を下回ってきたことはそれなりにワクチン接種やコロナ対策の生活環境が功を奏してきたと捉えたい。このまま期待通り嘗ての生活の回復がなされることをみな願っている。今や新しい時代の到来と受け止めている方々も多いと思われる。しかし日常生活は先の衆議院選挙の結果に見られる通り一寸先は闇の世界である。

 

  使徒パウロはエフェソの教会の人々に向かって「今は悪い時代なのです」と語る。エフェソの町は使徒言行録19章に見られる通り、ローマ帝国の繁栄と共にアルテミス神殿による宗教都市として栄えていた。物流が盛んで様々な迷信が横行し、ユダヤ人の祈禱師による魔術も行われ金儲けの手段にしていたと言う。そのような中で、パウロは福音によりキリスト者となった人々に古い生き方を捨て「光の子として歩みなさい」と勧告する。腐敗した社会の中で新しく夫婦関係の問題、親子関係の問題、主人と使用人との問題について語っている。イエス・キリストの贖罪愛に生かされた者は新しい志しをもって愛に生きるよう説得する。

 

  パウロは「空しい言葉に惑わされてはなりません。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい。」と言う。時代に翻弄され、コロナ禍の中で目的を失い、価値観の相対化に飲み込まれて自己自身を見失って生きている現状は人々を不安へと追いやる闇の勢力です。しかしキリスト者は悪い時代の中でも成熟した人間として賢く生きる事が求められています。キリスト者は「もはや未熟な者ではなく、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、愛に根ざして真理を語りあらゆる面で頭であるキリストに向かって成長して行きます。」と教える。光は同時にあらゆる善意と正義と真実を明らかにする。まことの光にさらされる時、今熱意をもって生きる姿さえも恥ずかしいものとなってしまいます。

 

 

  闇の支配に打ち勝つ力は人となられたキリストの輝きに身をゆだねる以外にないのです。神はキリストと共に働かれ、キリストによって世界を浄化されるのです。世界はそれぞれに自己目的化した価値観をもって国威発揚を実践していますが、それを超える価値観は自己犠牲を厭わないキリストの光を持つ以外に得られないのです。教会は福音の共同体としてその事実を知っています。

 10月メッセージ(桜台教会『月報10月号』より)

 

『主は羊飼いとして群れを養い、

 

小羊を懐に抱き、母を導かれる』

 

      (聖書 イザヤ書 40章1-11節)

 

       牧師 中川  寛

 

 新型コロナ感染症による緊急事態宣言がようやく全面解除となった。しかし東京都は一般生活を慎重に、今まで通り「ウィズ・コロナ」の時代として過ごすよう要請している。今後の感染の成り行きが心配だが、同時に1年半続いた自粛生活は多くの人々を不安な悲しい時代へと導いた。世界的試練の時期であるが、かつての自由な時間的環境は奪われ、生活基盤が失われた。同時に失ったものをすぐに獲得、回復することもできない。高齢者や病弱の人々のみならず、若い人々もこの厳しい病気と遭遇した。それは恐ろしい程に万民平等の恐怖であった。誰がどこでどのように発生させたのかは何れ明らかにされることであろう。ワクチン接種によりかなりの発生が抑えられたようだが、難しい法的拘束の中で治療薬も自由に与えられず、また医療機関における様々なパニック状態は医療危機の現状を露呈するものであった。

 

 生命救済の最優先が実施されているにも拘らず、救急体制の貧弱さゆえに命を落とした方々も大勢おられる。自宅待機はまさしく医療放棄と言われても致し方ない。病状の悪化が深刻な事態であっても一人住まいの方々には連絡の仕様がない。不安と恐怖の環境が改善された訳ではない。まだしばらく続くことを覚悟しなければならない。

 

 預言者イザヤの時代も同様であった。バビロニアの進撃によりイスラエルは征服され、強制連行の後70年に亘って亡国の民となった。しかし贖罪者ヤハウエはイスラエルの叫びを聞き、異国の王ペルシャのキュロスによって彼らを解放させることとした。米国の早急なアフガン放棄も民衆の将来を混乱させ、タリバン体制による不安が増加している。香港・ウイグルなどもコロナ危機と共に政治的弾圧に対処することができない。庶民にとって経済的危機は避けがたい悲しみであるが、将来の展望が開けないでいる。

 

 

 ある人はカオスの時代と言う。確かにそう思える現象があちこちに見られる。しかしもっと深刻なのは世界の文化・文明の理念が見失われ、タガが外れたように文化形成力、価値基準が失われたことである。キリスト教的超越の形成力、人間育成の教育力が教会活動から失われている所に根本原因が起因する。福音的聖書理解と信仰的情熱が渦巻くところでははるかに予想を超えて社会の発展が進行している。多々問題があるにせよテキサスの成長発展には目覚ましいものがある。そこに神の愛、アガペーが息づいている。これが人を生かす力である。『主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(40:31) 桜台教会も再出発の時が到来したようだ。

   9月メッセージ(桜台教会『月報9月号』より)

 

        『マラナ・タ(主よ、来てください)』

 

        (聖書 ヨハネ黙示録 22章18-21節)

 

         牧師 中川  寛

 

  ヨハネ黙示録の著者長老ヨハネはイエス・キリストへの信仰のゆえにローマ皇帝ネロによる迫害下、エーゲ海の小島パトモス島に幽閉された。しかし残された教会の信仰者達にキリストの勝利の姿を力強く証しする。激しい殺戮を行った皇帝ネロの名前は13章に記された「666」という数字によって明記されている。その数はアラム語で「ローマ皇帝ネロ」の文字を数詞化した合計である。

 

  勝利者キリストは地上に神の正義と平和をもたらすために再臨して再び厳しい裁きを行われると言う。『見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。(22:12-16)

 

  十字架のキリストが唯一の贖罪者であり神の仲保者であるとの信仰はこの世のすべての価値観に優る絶対的信仰の確信である。この一点を外してキリスト教信仰は成り立たない。それはキリストをメシアとして受け入れた者の福音的確信である。 避けることのできないコロナ禍の火中にあってもキリストは常に聖書のみ言葉によって希望と平安を与えて下さる神の御子である。キリストによる永遠の愛によって信仰者は祈りのうちに真理を獲得する。

 

  1582年、天正遣欧少年使節の一員としてローマに派遣された千々岩ミゲルは帰国後棄教したと言われているが、昨年から長崎大村の墓地発掘調査により数々の信仰の証しが発見され、伊東マンショ・中浦ジュリア・原マルチノと共にキリスト者としての生涯を全うしたとの報告がなされている。当時13歳の少年たちがキリスト者となり、9年に亘りルネッサンスの華やかなローマで教皇グレゴリウス13世に謁見した貴重な体験は生涯消え去るものではなかったと確認された。日常生活がとれほど世俗的であっても洗礼を受けた実体験の重味は捨て去ることはできない。

 

  世界の教会はコロナ感染症によって毎日曜日の礼拝を共に守る事は出来ていないが、信仰者の霊的交わりはみ言葉の研鑽と祈りにおいて深められている。日々戦いの中にあっても黙示録の語る通り、「マラナ・タ(主よ、来てください)」と祈りつつ、福音に固く立ってコロナ禍を克服したいと願う。

 

【聖書】

 

22:18 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。 22:19 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。 22:20 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 22:21 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。

 

  7月メッセージ  (桜台教会『月報7月号』より)

 

    『地の塩、世の光』 

 

       (聖書 マタイ福音書5章13-16節)

                                             

                    牧師 中川  寛

 

  『あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気が無くなれば、その塩は何によって味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。』 

 

  イエスはガリラヤ湖畔の山の上で大勢の民衆を前に神に祝福された人の生きる道を説教された。福音は時代を超えて信仰に生きる人々に希望と喜びをもたらす。その勢いは今も昔も変わらない。世界を覆うコロナ禍の中、明日のゆくえが見えない暗い時代であるが福音は決して人を裏切らない。神の真実は常に新しい希望をもたらす。キリスト者も同様にコロナ禍のただ中で様々な試練を受ける。しかしその直面する危機は絶望ではない。神の知恵に導かれて困難の中に新しい希望の光が照らされる。常にみ言葉の学びを通して、祈りと信仰の真実を生きる事が求められる。神なき時代の悲惨は悪魔の支配に服せしめられた証しである。不安な時代のただ中にあっても自暴自棄に陥ってはいけない。イエスの教えた山上の説教こそ

人間が正しく強く生きる道を教えるものである。

 

  塩は食生活に欠かせないものであるが、死海の南岸に見るように四方が岩塩で囲まれた塩の道ができている。確かに外にまかれた塩は怒りと呪いのしるしで人々に踏みつけられて終わりであるが、わずかな塩味は甘味を引き出し食材をより旨味あるものとする。塩気は昔から人々に活力を与える素材として貴重な資源となった。同時に腐敗を守り長期保存に役立つ。しかし度が過ぎると命の危機をもたらす。最近では園芸でもバラを育てるのに牛糞は用いないそうだ。牛が舐めた塩によりバラの命を短命にするそうだ。しかし人間関係においてはちょっとした気遣いが人々に慰めを与え、和み、和らぎをもたらす。

 

  イエスは『あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。』と言われる。愛と信仰に生きる人は皆まことの光がどこから来るかを知っている。『わたしは世の光である。』と語られたイエスの生涯は悲しみに満ちた人々に希望を与え、絶望する人々に復活の驚きをもたらされた。これらは作り話ではない。あちらこちらで暗い話が人々を悲しませるが、しかし福音の力はキリストと共に新しい一歩を踏み出す勇気と決断を与えるものなのである。「山の上にある町は隠れることができない。ともし火をともして升の下に置く者はいない。」 勇気をもって主を誇るものとなりましょう。

 

 

 

6月メッセージ(桜台教会『月報6月号』より)

 

  『五つのパンと二匹の魚の奇跡』

 

    (聖書 ヨハネ福音書6章1-14節)

 

                 牧師 中川  寛

 

   コロナ禍の中、依然として先が見えないまま二年目を迎えたが、多くの人々にとって不安な日常に変わりはない。世界的にまん延するコロナ感染症により人々の生活の基盤が大きく変わった。とりわけ社会的弱者はこの疫病災害にいつまで耐え得るか。ワクチン注射によって早期回復がなされることを願いたい。

 

   教会はこの事態に際して成す術を知らない。人的にも経済的にも危機的状況にある。しかし聖書は力強くイエスの働きを語り、神による希望の道を指示される。魂の拠り所を持たない人々には試練の連続であるが、決して希望を捨ててはならない。信仰者は常に神さまが私達の日常をご覧になっていることを知っている。それ故に絶望することはない。

 

   今月のメッセージはイエスに従った五千人の人々が大麦のパン五つと魚二匹を持つ少年によって助けられた物語で、ガリラヤ湖のカファルナウム辺りでの出来事である。イエスの癒しの奇跡を知って大勢の群衆がイエスの後を追った。イエスは山に登り弟子の一人フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいのだろうか」と問われたとある。フィリポは「めいめいが少しずつ食べる為にも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。マルコ福音書には男五千人とあるので女・子供を含めるともっと大勢の群衆が集ったに違いない。同時に近所にパン屋があるわけでもない。

 

    恐らくフィリポも途方に暮れたであろう。しかしその時ペテロの兄弟アンデレが「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持った少年がいる」と答えた。アンデレは絶望感をもって多少冗談交じりにイエスに言ったのかもしれない。「けれどもこんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と付け加えている。イエスはその事実を見逃さず「人々を座らせなさい」と言われた。そして少年の持っていたパンをとり、感謝の祈りをとなえて人々に分け与えられた。魚も同様にしてほしいだけ分けられたと言う。イエスの言葉は差し出されたパンと魚を分かち合う少年の気持ちが如何に大きいかを語られたに違いない。そして少しも無駄にならないように配慮された。

 

   今の時代は多少の蓄えがあっても隠しておいて他人の分まで欲張って自分の物にしてしまう悲しい時代である。持てる者と持たざる者、支配と被支配の関係がさらに強化され、多くの弱者にシワ寄せが行っている。キリスト者は常にともに助け合い、譲り合う奉仕と犠牲の精神を持ち続けなければならない。常にキリストに学び、神のご意向を問いつつ善き業に努めたい。

 

(聖書 ヨハネ福音書6章1-14節)

 ◆五千人に食べ物を与える

 6:1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。 6:2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。 6:3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。 6:4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。 6:5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 6:6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。 6:7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 6:11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 6:12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 6:13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 6:14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。

 

 

5月メッセージ(桜台教会『月報5月号』より)

 

  『しかし、主の道は永遠にかわらない』

 

(聖書 ハバクク書3章1-19節)

 

                    牧師 中川  寛

 

  第3回特措法緊急事態宣言発出により新型コロナ感染症は変異株を発生させつつ大阪東京を狙い撃ちしたように新規感染者数を増加させている。5月の大型連休にも拘らず不要不急の外出自粛、三密を避け会食禁止と呼びかけられている。世界中が同様の疫病災害と戦っている厳しい現状である。

 

  旧約の預言者ハバククはBC6世紀新興の大国バビロニアの侵略を受け南王国ユダの悲惨な様を描写する。廃墟と化したエルサレム神殿を前に神のみ心を探った預言者であった。3章には哀調を秘めた響きをもって讃美の歌を記している。『主よ、あなたの名声をわたしは聞きました。主よ、わたしはあなたの御業に畏れを抱きます。数年のうちにも、それを生き返らせ 数年のうちにも、それを示してください。威光の輝きは日の光のようであり そのきらめきは御手から射し出でる。御力はその中に隠されている。疫病は御前に行き 熱病は御足に従う。主は立って、大地を測り 見渡して国々を駆り立てられる。とこしえの山々は砕かれ 永遠の丘は沈む。しかし、主の道は永遠に変わらない。』(323ff) 預言者ハバククはエレミヤと同時代の人と言われている。特に24節の言葉『見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。』(2:4)はパウロがローマ書で引用する言葉である。通常「義人は信仰によって生きる」と暗唱されているが、福音信仰の重要な教えである。四面楚歌の厳しい時代にも信仰者は聖書のみ言葉に従って希望を抱き続ける。

 

  コロナ禍の時代多くの労働が奪われ、人間関係の不信に疲れ、同時に重症となった罹患者の現状を見聞きするにつけ、私達はこの厳しいウイルスとの戦いの日々が一刻も早く収束することを願っている。特に医療関係に従事する方々の激務を覚えキリスト者は静かに十字架を前に祈ることが重要である。公共の奉仕者への感謝も筆舌に尽くしがたい。いつなん時罹患するか分からない不安を拭い去れない。感染者には厳しい社会的偏見と蔑視の眼が向けられる。あってはならないことが日常生活に生起し、悲しいかな家族的人間関係に至るまで破壊される。

 

 

  ハバククは決して希望を捨てない。全能者なる神はこの苦難を通して更なる信仰の高みへと導かれるのである。『いちじくの木に花は咲かず ぶどうの枝は実をつけず オリーブは収穫の期待を裏切り 田畑は食物を生ぜず 羊はおりから断たれ 牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び わが救いの神のゆえに踊る。』 (3:18、19) 預言者の信仰に励まされて共にこの時代を生き抜きましょう。

 

4月メッセージ(桜台教会『月報4月号』より)

 

 『復活信仰-愛、赦し、平和、喜び、希望』

 

 (聖書 エフェソの信徒への手紙 4章1-16節)

 

                         牧師 中川  寛

 

  イースターおめでとうございます。コロナ禍2年目を迎え、日本はもとより世界の状況は全く芳しくはありません。しかし教会は世界がどれ程困難な状況にあっても、聖書のみ言葉と共に「キリストは甦られた」と告白します。キリスト教信仰はイエスの復活信仰なのです。

 

  キリストの復活は単なる生命の蘇生ではありません。この世の生命はいずれすべて滅びます。しかし聖書は滅ぶべき肉体を超えてキリストの贖罪により魂の復活、キリストによる神への新生を教えます。目には見えないが心に信じて確信する霊的実体は、神のもたらす究極の永遠の命なのです。従ってナザレのイエスはゴルゴダの丘で処刑されて終わったのではなく、すべての罪の償いの証しとして神による三日目の甦りを実証されました。キリスト者はこのキリストの復活を信じる信仰によって新しい命に生きる者なのです。

 

  使徒パウロは獄中書簡エフェソ書おいてキリストにある新しい生き方を教えています。キリスト信者は『愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それはあなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ』とあります。

 

  裏切りの罪を犯したイエスの弟子達はキリスト復活の告知を聞いて皆恐れました。しかし復活の主は「あなたがたに平和があるように」と言われ、彼らを咎めたり責任追及をなさらないのです。それがキリストの愛であり、赦しなのです。復活信仰を否定すれば生前のすべての罪は強力な力をもって弟子達を襲います。その結末はイスカリオテのユダの自死が証しています。しかし復活の主を受け容れることによって大きな平安と平和が与えられます。罪赦された者の確信は復活の主から、すなわち悔い改めのしるしとしての水による洗礼を受けることによって宣言されます。

 

  しかし神を信じる信仰がすべての人々を生かすカギとはなりません。聖書が教え、教会が継承してきた贖罪信仰によってはじめて魂の再生が起こります。それが霊的喜びであり、魂の歓喜です。キリストと共に新しい希望もって確固たる人生を歩むことになります。さらに困難の中にもチャレンジする力が湧きます。

 

 

  使徒パウロはこう結論付けます。『わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。』 これが復活信仰です。

3月メッセージ(桜台教会『月報3月号』より)

 

『それは平和の契約であって、災いの契約ではない』

 

  (旧約聖書 エレミヤ書 29章10-14節)

 

                    牧師 中川  寛

 

 エルサレムの春はアーモンドの木に見る濃いピンク色の花の開花と共に来る。若き預言者エレミヤはBC627年の春、アーモンドの木に咲く美しい花と共に神からの召命を受けた。その時彼は『ああ、わが主なる神よ 私は語る言葉を知りません。私は若者に過ぎませんから。』と答えたが、『若者に過ぎないと言ってはならない。私があなたを誰の所へ遣わそうとも、行って私が命じることを全て語れ。』と言われた。そしてアーモンド(ヘブル語:シャーケード)の木のように私はあなたを見張っている(ショーケード)と言われたと言う。神はさらに続けて『彼らを恐れるな。私があなたと共にいて必ず救い出す。見よ、私はあなたの口に私の言葉を授ける。今日、あなたに諸国民諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、或いは建て、植えるために。(1610)』と明言された。

 

 彼はこの召命の体験の通り、バビロン捕囚のイスラエルに向かって神による新しい契約の言葉を語り、やがて新約に続くイエス・キリストによる全人類救済の物語へと繋がって行く。しかしその捕囚の期間は70年の時を要した。常識的に考えてもイスラエル捕囚の二、三世代を待たなければ成就されなかったのである。苦境にあった民に対して、エレミヤは預言者として、神から受けたことばを語る。『バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。』と言う。神への信頼を捨てたイスラエルに向かって、70年の月日が経てば神は再び平和の契約をもたらされると言う。『あなたたちが私を呼び、来て私に祈り求めるなら、私は聞く。私を尋ね求めるならば見いだし、心を尽くして私を求めるなら、私に出会うであろう』と言われる。(29:12-14)

 

 イエス・キリストにおいて実現成就した救いの完成は今日も福音的キリスト者によって引継がれている。否、将来においても継続されるであろう。疫病と飢餓、戦争と災害の危機にあっても神への信頼を失わない限り、主はその願いを実現させて下さるのである。コロナ感染症による全世界の活動停滞によって多くの人々は期待していた将来と希望とを放棄させられている。しかし預言者の心は人の思いとは異なる。逆境の中にあっても神への信頼を失わず、「私が捕囚として送った町の平安を求め、その町のために祈りなさい。」と勧告する。苦境の中で神を崇め、祈りを続けることが今一番求められることである。

 

 

   

   2月メッセージ (桜台教会『月報2月号』より) 

 

    『砂漠よ、喜び、花を咲かせよ』

         

       (旧約聖書 イザヤ書 35章1-10節)

                                                  

        牧師 中川  寛

 

   立春を迎え、コロナ禍の中、丸一年が経過した。誰もが予想だにしなかった感染防止による自粛生活と緊急事態宣言発令による日常生活の閉そく感、さらには経済生活の制約感が個人の心を傷付ける差別偏見の横行が異常な環境を惹き起している。世界中がコロナのパンデミックにより多くの困難を来している。悲しいかなウイルスの抑え込みはワクチン導入と更に三密を避け消毒を継続する以外に方策はなさそうである。疫病の蔓延が世界の

すべての環境を狂わせてしまった。

 

  旧約の時代にも多くの疫病があった。人々は様々な病気と闘いながら祈りをもって悲しみを克服し困難に立ち向かった。預言者は戦争、自然災害、病気蔓延と次々に起きる悲しみに対峙しつつ神への信頼をつないでいった。イザヤは冬枯れの荒廃した地上を見渡して『荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。』(35:1)と呼びかける。正義の神はいかなる時にも命の躍動をもたらし、信仰者に希望と慰めを与えられるという。季節の移り変わりと共に、荒涼とした荒地に春の雨が降ればその後美しいカルメルの青い絨毯に敷き詰められた緑の原野が現れ、シャロンのバラと言われる美しい草花で丘陵一帯が覆われる。

 

   イザヤは疲弊したイスラエルの人々に呼びかける。ヤハウエは常にインマヌエルとしてヤコブの末を見守っておられる。『弱った手に力を込め よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで 荒れ地に川が流れる。(35:3-6)と叫び呼びかける。救いの神は多くの生活の基盤を奪われた人々に向かって希望を捨ててはならない、誘惑に負けて弱音を吐いてはならないと語られる。

 

 

   信仰者は常に聖書の言葉に励まされ、神の愛を確認しつつ困難な道を切り開いてきた。不義と戦い、神の正義を求めて栄光の到来を待ち続けたのである。多くの人々がその道を離れ、神に頼ることなく己が良しと思われる迷いの道に彷徨って行った。しかしイザヤは人々が見捨てて行ったところに立ち止って神の栄光を仰ぐ。『熱した砂地は湖となり 乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは葦やパピルスの茂るところとなる。そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ 汚れた者がその道を通ることはない。』 (35:7-8)と教えるのである。

 

2021年 1月メッセージ (桜台教会『月報1月号』より)

 

  『正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む』

    

     (旧約聖書 ミカ書 6章8節)

 

               牧師 中川  寛

 

    BC8世紀の預言者ミカはヘブロン西方のモレシュト・ガザの生まれと言われる。北イスラエルの滅亡と共に指導者たちの堕落がはなはだしい南王国の危機の中で主の言葉を聞いた。『わが民を迷わす預言者たちに対して主はこう言われる。彼らは歯で何かをかんでいる間は平和を告げるがその口に何も与えない人には戦争を宣言する。それゆえ、お前たちには夜が臨んでも幻はなく暗闇が臨んでも、託宣は与えられない。預言者たちには、太陽が沈んで昼も暗くなる。先見者はうろたえ託宣を告げる者は恥をかき 皆、口ひげを覆う。神が答えられないからだ。』(3:5 3:7)と。 ベツレヘムでのメシア誕生を預言したミカであるが、時の為政者たちの不義が国を危うくしていることを厳しく指摘する。『聞け、このことを。ヤコブの家の頭たち イスラエルの家の指導者たちよ。正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ 流血をもってシオンを 不正をもってエルサレムを建てる者たちよ。頭たちは賄賂を取って裁判をし 祭司たちは代価を取って教え 預言者たちは金を取って託宣を告げる。』 (3:9-11)

 

    新年を迎えてコロナを追いやり安定を希求する年頭に於いて、事態は必ずしも希望的ではない。イスラエルの町の名をアメリカに変えて読んでみるとその実態が見えてくる。すでに民主党政権が次期体制の準備をする中、不正選挙を暴くトランプ政権は最後の戦いを継続している。これは世界にとっても国際関係と共に各国の価値意識の動向に大きな影響を与える。それ故に米国選挙の動向は世界を変えるカギとなっているのである。

 

    「正義」と「平和」は誰もが目標とする理想価値であるが、歴史を通じて真理と自由を掲げて時代を構築してきたキリスト教歴史観の根本原理である。ヨーロッパの歴史がそれを証明している。コンスタンチヌス帝以来「教会と国家」の関係、権威の抗争、信仰の正当性、宗教改革、やがて啓蒙主義に翻弄された文化の混乱に至るまで、キリスト教神学の正統性が議論されつつ国家形成と文化形成に当たって来た。日本の国家理念、文化創造の原理は未だ島国の域を出ていない。長い歴史を誇る日本文化には国家形成の原理が天皇制に集中しすぎていないか。宗教に関しては汎神論であるが八百万の神々を仰ぐ民族は信仰の相対化の中で自己矛盾に陥っている。近代科学の合理主義においては唯一神教は自己絶対化に陥り、カルト化と共に社会から遊離してしまっている。宗教は自己を相対化しつつ普遍妥当性に立つ信仰の教理を持つことである。米国は今その渦中で「正義」獲得の戦いを続けている。

 

 

 12月メッセージ (桜台教会『月報12月号』より)

 

  『光は暗闇の中で輝いている』

    

     (新約聖書 ヨハネ福音書 1章1-5節)

 

               牧師 中川  寛

 

   コロナ禍が引き続き世界を覆い、新型コロナ感染症の収まる気配もない。自粛の呼びかけがなされる中、クリスマスを迎える時となった。日常生活が制限され、世界の教会もまた異常事態が続いている。経済活動が制限され、政治的にも米中対立の混乱が度を増している。将来への展望も開けない中、私達の日常も様々なストレスに攪乱され四面楚歌の状態である。しかしそれでもみ言葉は希望に生きるよう呼び掛けている。

 

  旧約書では預言者イザヤが混乱の中にあるイスラエルの人々にこう語る。『起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。』(60:1-2) 暗黒の中に主の栄光が輝き出ると言う。新約書では黙示録に『わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。』(22:16)と新しい光の到来を告知する。神はこの試練の時を見過ごしにされているのではないかと不安を覚える人々も多い。しかし全世界を照らすまことの光が世に来たことを福音書記者も使徒たちもはっきり自覚していた。

 

  世界は今や光と闇との戦いの時期であると語る論者もいる。しかしキリスト者は興味本位に終末戦争の到来を語ったりはしない。キリスト者の依って立つ信仰、すなわちキリストの勝利を確信して生きる事を優先する。使徒パウロはエフェソ書において『あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。』(5:8)と勧める。更に『実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです』(5:11-14)と言う。

 

   クリスマスはイエスキリストの誕生を祝う日のみならず、新しい光の到来を喜ぶ時です。今年の12月21日は800年ぶりに月と火星と木星が一つに集中する年だそうだ。晴れていればその星空に見事な輝きの構図が体験できるかもしれない。古代から人々は夜空に輝く星の運行を知っていて、どれほど悪の勢力が世を覆い、闇が支配する時となっても明るく輝く光の強さに真理と正義の保証を保ち続けた。

 

 

  「ダビデのひこばえ」が神なき時代に平和と安寧をもたらす根拠であると聖書は語り伝えて来た。罪ある人間の悪しき基準を打破して、超越の価値を享受する福音の伝統を心の拠り所としなければ暗黒を打ち破ることはできない。米国は今この真理に立ち返って新しい道を樹立しようとしているのである。

 11月メッセージ (桜台教会『月報11月号』より)

 

  『木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる』

 

     (旧約聖書 マタイ福音書 12章33-37節)

 

 

              牧師 中川  寛

 

   『蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。』 マタイ福音書ではサタンと戦う主イエスの言葉を厳しい口調で印、悪しき勢力を叱責する。時代はもはや優しい言葉では語ることができないほど悪魔化してしまった。誰が真実を語っているのか、また民衆は誰を指導者として建てようとするのか。米国大統領選挙に様々な不安を覚えつつ、その結果を今か今かと待ち望む日々であるが、奥深い世界の指導者たちの闇を垣間見るにつけ、現象に一喜一憂される庶民の愚かさに嘆きを覚える。

 

   コロナ禍の中、感染者数が高止りしたまま冬を迎える季節になったが、一向に収まらないコロナ感染者数は再びEUでは国を挙げてロックダウンするところも出てきた。病院のベッド数が再び緊迫する状況では如何ともし難い事態である。国を挙げて経済活動が弱小化し、職を奪われ生活が困窮する。ワクチン開発が待たれるのは言うまでもないが、その背後に製薬会社と政府、医師会との見えない思惑があるようだ。このような不安な事態を招来した国家や為政者の責任は大いに問われるべきである。しかしそれは昨日今日に始まったことではなく、近代の始まりに起因すると言う。

 

   欧米の資本主義国家の成立と共に投資利息による多額の金銭を確保した一部支配者たちが戦争を惹き起し、世界経済を不安定化し、悪意をもってイデオロギーを拡散し、多くの民衆を死に追いやってきた勢力が何世代にも亘って世界を恐怖へと陥れていると言う。これこそイエスが厳しく批判したサタンの権化ベルゼブルの暗躍の歴史である。

 

 

   米国選挙戦によってはからずも露呈したバイデン親子の裏の働きはオバマ、クリントン、ブッシュの時代を支配してきたエネルギー利権にまつわるすべての裏取引によって、9.11に始まる米国の歴史と戦争・平和への展開の背後に多くの疑惑が露呈される事態となった。共産化を狙うサタンの勢力があちらこちらに暗躍し、世界を混乱させている事実が暴露されつつある。どの論調が正しいのか、どの勢力が真に世界平和に貢献しているのか、まだまだ明確にされる事態ではないが、神の正義がこれを暴くこととなる日を待ちたい。反知性勢力としての米国福音派の人々の聖書にかけて正義を追求する姿勢は米国法社会の維持のためにも活動を続けてもらわねばならない。FBICIA、汚職政治家の中に多くのスパイが暗躍する現代はキリスト教会を含めて揺り戻しが求められる。それは宗教改革を再び必要とするほどの腐った現代社会に再生の芽を生み出す事を意味する。

   10月メッセージ(桜台教会『月報10月号』より)

 

        『お前たちは心挫けてはならない。』

             

        (旧約聖書 エレミヤ書 51章46-53節)

                                 

                   牧師 中川  寛    

 

   預言者エレミヤの言葉は後のユダヤの歴史に大きな影響を与えている。神の民のバビロン捕囚を経て、彼は神がイスラエル民族を見捨てたのではなく、神の新しい救済の希望を明示した。エレミヤ書31章に『主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある。』(1617)と記す。そして有名な新しい契約の言葉が続く。『見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』(3133)と。これが新しいイスラエルの生き方となり、この言葉によってイエス・キリストによる新しい救いの契約が提示されることとなる。

 

   しかしエレミヤは悲しみの預言者と言われるように、彼は自国の敗北を語り、敢て捕囚の民となることを説く。その為に売国奴とののしられ、非国民とあざけられる。投獄され鞭打たれ、最後はエジプトへの逃亡の後殉教の死を遂げたと言われる。しかし彼の言葉は『お前たちは心挫けてはならない。この地で耳にするうわさを恐れるな。』 『それゆえ、見よ、その日が来ればわたしはバビロンの偶像を罰する。バビロンもまた、必ず倒れる』(51:4749)と力強く語る。

 

   預言者は困難な中にも神による正道がどこにあるかを民に伝える。福音に生き、福音を語る者も同様である。激動の中にこそ真の生きがいが示される。福音に生きる人々は神による正義と法、秩序を常に求めて最善の道を模索する。それは祈りとみ言葉による研鑽によって獲得されるものである。時代の転換期、自然の異変、権力の覇権争い等、私達を取り巻く社会環境もまた激変のただ中にある。困難なことに経済的危機の中で不幸な事柄が優先する。先行き不安な不透明性がさらに重く人々の日常にのしかかる。子供達の将来を案じ、自己の明日に心悩ませる時代である。自殺者の増加と自己破綻の日常は政府の思い切った実効性が待たれる。新型コロナ感染の危機はその死亡者の増加によって消えることがない。四面楚歌の状態で改めて歴史に学び、福音的伝統に立ち返ることが求められているのである。

 

 

   エレミヤは破局を迎えた中でもこう語る。『バビロンもまた、必ず倒れる。剣を逃れた者らよ。行け、立ち止まるな。遠くから主を思い起こし/エルサレムを心に留めよ。』(51:4950) 世界は更に大きく揺さぶられるが、同時に真理の輝きがさらに増して来る。

    9月メッセージ(桜台教会『月報9月号』より)

      

       『神殿から湧き上がる命の水』

            

      (旧約聖書 エゼキエル書 41章1-12節)

 

                      牧師 中川  寛

 

   『夏にはコロナは去る!』との予測は見事に挫かれた。それは日本だけの事ではない。既に半年が経過した。だが第二波、第三波が予測されると言う。2020年のすべての計画が水泡に帰した。幸いにして罹患し闘病する方はいないが、秋・冬を迎えインフルエンザの季節になると事態がまた推移するであろう。すべてにおいてワクチンの開発が待たれる。諸外国に比べ日本での死亡者数は非常に少ないが、社会生活の不自由に変わりがない。同時に経済生活の困窮、国民生活の窮状はそのままである。進展の無いままに世界の政治情勢も厳しさを増している。その多くは財政的行き詰まりであるが、教会もまた追いつめられている。特に贅沢をしているわけではないが、世界は食糧危機を迎える事となる。生活の立て直しが求められている。首相が変わっても財政の道が開けるわけではない。老人は兎も角、若者や子供たちの成長の機会、活動の機会を奪っていることは将来に対して大きく危惧するところである。

 

  預言者エゼキエルはバビロン捕囚の中で神にあるヴィジョンを語った預言者である。捕囚の人々を前に新しいヴィジョンに生きる預言者として神からの啓示を受けた。彼は既に死んだイスラエルの人々の復活を予告する。神の霊による魂の再生力が生じ、枯れた骨々が肉をつけて再生すると言う驚きの奇跡を産む。同時に彼は新しいエルサレムの神殿を再建し、全世界に行き渡る聖なる清い水をもって命あるものに活力を与えると記す。この幻は乾いたヨルダン渓谷に緑の楽園をもたらすとの壮大な神の計画である。預言者イザヤも語った砂漠に水が流れる事態である。

 

 

 命の水は新しく建てられたエルサレムの神殿の南壁から流れ出て、死海を越え、アカバにいたる流れを作る。『川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。』(47:9)と記す。福音書記者ヨハネはこの言葉を受けて、『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』 (7:38) とイエスの言葉を教える。聖なる水が人々の心を清め、新しく生きる力を湧き立たせる。聖所から湧き出る水が世界を潤す。聖霊の働きが人々の心に強い意志を醸し出す。八方塞がりの時代ではあるが聖書の信仰を得て神の正義を打ち立てる為に働く人々を神は用いて下さると確信する。キリスト教的伝統に生きる社会には常に新しい働きが提示される。この秋は歴史が変わる時となるだろう。

  8月みことばメッセージ

        

主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。

 

              (旧約聖書 イザヤ書 40章3節)

 

                      牧師  中川  寛

 

   漸く夏の太陽が顔を出し、セミの鳴く声が聞こえる時を迎えた。が時は新型コロナ禍の第二波か東京では四百名を超える感染者を出し、事態は拡大の相を増している。異常な環境の中で日々戦いを継続する方々に平安を祈ります。

 

   第二イザヤはバビロン捕囚にあるユダヤ人に向かって新しい主の言葉を語った。『慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち彼女の咎は償われた、と』(40:1.2) 50年に亘る捕囚の民に新しい解放の時が来ると呼びかけた。おそらくその言葉に耳を傾ける人々は少なかったであろう。しかし預言者は主の言葉に従って呼びかける。『主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。』(40:3.4) 

 

   イスラエルの悲劇はそのままで終わらない。敗北を期して新しい希望の道が示される。『残りの民』として選ばれた新しいイスラエルの民の中から、復興のために神は力ある人々を興されると言う。荒れ野に道を備え、険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれと命じる。インマヌエル(神共にいます)の到来を予告した第一イザヤに続いてその信仰を受け継いだ第二イザヤは廃墟と化したエルサレムの再建に取り掛かる。彼らに在るものは神への信頼と主の民としての自覚であった。選ばれた主の民は決して見捨てられることがない。エル・シャダイ(全能者は生きておられる)の信仰が日々の苦難を耐えさせる。信仰無き者は瞬く間に虚無と痛み、苦しみの中で悶え死を迎える。苦難の中で悲劇は後を絶たない。しかし信仰者は決して消滅することはない。

 

 

  全能者は歴史の主であり支配者である。ユダヤ・キリスト教の歴史はその信仰によって導かれている。BC6世紀ペルシャ王キュロスの出現によって捕囚のイスラエルはバビロンから解放されることとなる。キリスト者はキリストと共にこの信仰を受け継いでいる。多くの悲劇を経験しても神はやがて歴史を裁き、その道筋を変えられる。聖書の約束に従ってその信仰に生きる者は決して見捨てられることがない。『あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない』 (40:28-31) と語る。

2020年7月 メッセージ  (桜台教会『月報7月号』より)

 

老人は夢を見、若者は幻を見る』

 

      (旧約聖書 ヨエル書 31章1~5節)

 

 

                            牧師 中川  寛

 

 

   預言者ヨエルはBC8世紀ユダの地で預言活動を行った人物で

 

ある。北の大国アッシリアの脅威を見、同時に食べ尽くされたいなご

 

の災害を神の裁きの時と捉えてイスラエルの神による裁きの時を深

 

く嘆く。小さな書物であるがヨエル書は主の怒りの日としてその事実

 

を記録する。

 

   『一つの民がわたしの国に攻め上って来た。強大で数知れな

 

い民が。その歯は雄獅子の歯、牙は雌獅子の牙。わたしのぶどうの

 

木を荒らし わたしのいちじくの木を引き裂き 皮を引きはがし、枝を

 

白くして投げ捨てた。泣き悲しめ いいなずけに死なれて 粗布をま

 

とうおとめのように。』(1:6-8)北の大国アッシリアは圧倒的な軍事力

 

をもってイスラエルを責めた。折しもバッタの大群がイスラエルを覆

 

い、食料はすべて食べ尽くされたと言う。その結果神殿に捧げるべ

 

き穀物とぶどう酒も無くなったとある。『献げ物の穀物とぶどう酒は主

 

の宮から断たれ 主に仕える祭司は嘆く。祭司よ、粗布を腰にまとっ

 

て嘆き悲しめ。祭壇に仕える者よ、泣き叫べ。神に仕える者よ、粗布

 

をまとって夜を明かせ。献げ物の穀物とぶどう酒は、もはや あなた

 

たちの神の宮にもたらされることはない。』(1:9.13)  

 

 

    非日常の世界が突如襲ってくる災難は今日の世界においても

 

同じである。いつまで続くのか分からないコロナ禍の中で私達は今

 

同様の試練に立たされている。ウイルス感染の不安以上に生活上

 

の経済的不安を強いられている。事態は世界中同じだ。余裕のあ

 

る生活はどこにもない。しかし見えない敵と戦いつつ、内なる不安を

 

抱えて教会生活は継続する。

 

 

    ヨエル書の言葉は激しい。敵がせめて来たら戦いの武具をも

 

って立ち上がれと命じる。『お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直

 

せ。弱い者も、わたしは勇士だと言え。』(4:10) これはイザヤやミカ

 

が教えた言葉とは逆である。何もしない成り行き任せではない。

 

 

    困難を打破するために立ち上がることが求められている。信

 

仰者は試練の時こそチャンスであることを覚えて努力することが求

 

められるのである。

 

 

    ルカは使徒言行録217節以下にヨエルの預言の言葉を引

 

用する。『その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたち

 

の息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わ

 

たしは 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。』 (3:1-2) 聖霊降

 

臨によりイエスの弟子たちが立ち上がったように信仰者にとっては勇

 

気と希望が与えられるみ言葉である。福音と共に生きる者にとって

 

大きな喜びとなる。試練はいつまで続くか不明であるが、暗黒が世

 

を覆う時も信仰者は常に堅実な日常を生きることができる。心を高

 

く上げて最善の日々を生きよう。

 

 

    2020年6月 メッセージ  (桜台教会『月報6月号』より)

       

   『石の心を取り除き、肉の心を与える

 

      (旧約聖書 エゼキエル書 36章25、26節)

  

                          牧師 中川  寛  

 

     長引くコロナ禍により更なる疲弊が拡大されている。第二波となる広

 

がりが懸念される中、社会生活の復興が待望される。米国における警察官

 

による黒人殺害事件は黒人差別反対のデモから一般市民を巻き込んで全

 

米的な暴動と破壊へと拡大されている。コロナ感染症問題と共にロックダウ

 

ンによるストレスと生活不安が更なる危機へと追いやっている。秋の大統領

 

選挙に絡む与野党双方の批判攻撃も激化される。荒らされた商店と街頭の

 

混乱は昨日まで平静であった町々を一変させている。この機に乗じてテロま

 

がいの先導者が出没し、事件当事者の黒人家族も暴動反対を叫ぶ大混乱

 

となっている。白人家族を狙う暴徒の出現を予測して私もfscebook等の一

 

切の掲載写真を破棄した。世界全体が『石の心』と化してしまったのである。

 

 

   引き続き預言者エゼキエルの言葉に学びたい。廃墟と化したイスラエ

 

ルに向かって『しかし、お前たちイスラエルの山々よ、お前たちは枝を出し、

 

わが民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが戻って来るのは間近である。お

 

前たちは耕され、種を蒔かれる。町々には人が住むようになり、廃虚は建て

 

直される。』(36:7-10)と言う。これは預言者の泣き言ではない。『わたしは二

 

度と国々の辱めの声をお前に聞こえさせず、諸国の民の侮りを二度と受けさ

 

せない。お前も自分の民を二度とつまずかせることはない。』(1415)と記

 

す。苦難の中にも神による再生の希望を持ち続けることが語られる。

 

 

   預言者はその変革の可能性を神による新しい清い水が振りかけられる

 

ことによって起きると言う。神によって悔い改めた新しい心を持つ人々によっ

 

てもたらされる。しかし、今や世界の教会も石の心になり下がってしまった。

 

神の視点に立つ証しが求められているにも拘らず、司祭・牧師も自己の経験

 

と判断に基づく愚かな証しを繰り返しているではないか。

 

 

   共に社会の再建を行うためには「石の心」ではなく「肉の心」が求められ

 

る。その為には徹底した罪の悔い改めが求められる。『イスラエルの家よ、恥

 

じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え。わたしがお前たちをすべての罪

 

から清める日に、わたしは町々に人を住まわせ、廃虚を建て直す。荒れ果

 

てた地、そこを通るすべての人に荒れ地と見えていた土地が耕されるように

 

なる。』(36:3334)と教える。

 

 

  正義と平和が行き交う世界の形成は程遠いように見えるが、福音の告知

 

を受け、目覚めた人々の証しが光を灯す。その働きによって世界は改善さ

 

れる。

 

 

2020年5月 メッセージ

                 (桜台教会『月報5月号』より)

 

   『わたしは生きている、と主は言われる』

 

  (旧約聖書 エゼキエル書 14章19‐23節)

 

           牧師 中川  寛 

 

   コロナ危機の最中、教会の方々をはじめ医療の第一線で使命を果たしておられる方々の上に、祈りをもってその働きが支えられ、主の導きのもと良き成果へと導かれますようにお祈りいたします。またこの困難な中で尽力されている方々の努力が報われますように祈ります。コロナウイルスは全世界に分け隔てなく人々を苦しめ、生活を破壊し、社会を混乱に陥れ、人々の活動を崩壊させ、死へと追いやるサタンであることに間違いありません。私達の周辺も集団感染に侵され、別離の悲しみを経験する方々がおられます。自粛生活が5月末まで延長されると言うシバリの継続です。神さまのお守りと慰めを祈ります。

 

 

   エゼキエルはイザヤ、エレミヤに継ぐバビロン捕囚期の危機の時代に生きた預言者です。彼がエルサレムの神殿で見た四つの悪夢を語ります。『また、もしわたしがその国に疫病を送り、わたしの怒りをその上に血と共に注ぎ、そこから人も家畜も絶ち滅ぼすなら、たとえ、その中にノア、ダニエル、ヨブがいたとしても―わたしは生きている、と主なる神は言われる―彼らは自分の息子、娘たちすら救うことができない。彼らはその正しさによって、自分自身の命を救いうるだけである。まことに、主なる神はこう言われる。わたしがこの四つの厳しい裁き、すなわち、剣、飢饉、悪い獣、疫病をエルサレムに送り、そこから人も家畜も絶ち滅ぼすとき、そこに、わずかの者が残されるであろう。息子、娘たちは逃れて救い出され、お前たちの所に出て来る。お前たちは彼らの歩みと行いを見るとき、わたしがエルサレムにくだした災い、わたしがそこに臨ませたすべてのことについて慰められる。お前たちは、彼らの歩みと行いとを見て、それによって慰められ、わたしがそこで行ったすべてのことは、理由なく行ったのではないことを知るようになる」と主なる神は言われる。』 ヤハウエから離反したイスラエルの悲劇が容赦なく描写されます。偶像礼拝、貪欲、傲慢、不義、不正、罪の結果破滅を迎えたという。しかしこの惨状から教えられることがある。それは生きる為に何が大切なものかという気付きであると。預言者は神に生きる望みを捨ててはならないと教える。

 

  

   エゼキエルは18章終わりに『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』 と語っています。信仰者は常に心に留めている有名な言葉です。命あるものは損なわれてはならないとの叫びです。まず家族、友人、知人を覚えて祈りましょう。仕事が確保され、家族が共に支えられるように祈りましょう。希望を捨てず、あきらめず、目標を定めて生き延びる努力を継続しましょう。この危機の時代に大切な生き方、家族関係を深く気付かされます。

 

2020年四月 メッセージ (桜台教会『月報4月号』より)

 

 

        『しかし、主の道は永遠に変わらない

 

 

 

                  (旧約聖書 ハバクク書 3章5、6節)

 

                       牧師 中川  寛

 

 

紀元前6世紀、南王国ユダ滅亡の危機を前に預言者ハバククはこう記す。 『疫病は御前に行き、熱病は御足に従う。主は立って、大地を測り見渡して、国々を駆り立てられる。とこしえの山々は砕かれ永遠の丘は沈む。しかし、主の道は永遠に変わらない。』 通常の年であれば4月はイースター(復活祭)を迎える春の喜びの季節である。しかし今年は新型コロナウイルスによって世界に恐怖がもたらされた。旧約聖書にはイスラエルの民が度々疫病、自然災害、飢饉、飢餓によって生存の危機に瀕した事件が記述されている。その最も多い災難は戦争であるが、争いに至る初動はすべて生存の危機であり病気、飢餓に起因する。

 

 

   全世界に蔓延する新型コロナ感染症の伝播の勢いは数週間の間に世界を一変してしまった。中国武漢から始まった病気の脅威はかつて旅した欧米の国々をあっという間に席捲し、人々を暗黒の恐怖へと陥れてしまった。人々の日常の生活を非日常の異常な社会へと変えてしまったのである。外出禁止による人々への圧迫はいつまで続くかわからない。どこでだれが感染させるか、相手が見えない。否、自分自身が無症状の故に周囲の人々に感染させているかも知れないのだ。

 

 

   イタリアにおける多くの聖職者がその司牧的任務の故に命を落とした。かつてのペストやスペイン風邪の大流行が人類の歴史を変えた様に、この「武漢肺炎」と呼ばれるコロナ感染症も政治、経済、社会、文化に大打撃を与えている。教会でさえも全世界的に礼拝やミサが中止され、祈りの機会が失われている。各国の非常事態宣言によって人々のストレスが溜まり、悲劇的事件が多発している。全世界の子供達には教育の機会が失われ、その美しい感性がそがれている。大人は次の時代を担う子供たちの成長への保証人として一刻も早く事態改善の為に大きな盾となってその道筋を確保してやらねばならない。

 

 

 信仰者は祈りをもってこの危機の重圧を脱ぎ捨てなければならない。聖書に学び、その危機を希望をもって乗り切らねばならない。イスラエルの歴史はバビロン捕囚によって70年の苦難を経験する事となった。彼らを支えたのは歴史の支配者であるヤハウエへの信頼であった。どんなに世界が変わろうとも、最善の努力を成しつつ神への信頼を捨てなかった。栄光の主はイスラエルと共に働き給う。『主の道は永遠に変わらない』との確信を持ち続けたのである。悲しみと苦しみのうちに世を去った多くの犠牲者の上に平安を祈らねばならない。危機はまだ始まったばかりである。コロナ危機と戦う方々のために祈ります。

 

 

 2020年三月 メッセージ(桜台教会『月報3月号』より)

 

       『わたしは福音を恥としない』

 

                 (ローマの信徒への手紙 1章16-17節)

 

                       

                                      牧師 中川  寛

 

 

    『わたしは福音を恥としない』は宗教改革者ルターによる福音の再発見で常に説かれる有名な言葉である。ローマ書の冒頭に記される福音の提題が常に信仰者の首尾一貫した信仰の礎となる。現代世界の相対化された価値観においても、実はここに歴史を貫くキリスト教精神の根幹が提示されている。キリスト教信者においては常にこの言葉が目標であると共に生活の根拠となる。

 

 

   使徒パウロはローマの信者に対して自己紹介的にキリストの福音の真理を明示し、神学的教義の中心となるキリスト教綱要を展開したと言っても過言ではない。キリストの贖罪による信仰義認の教えは神の義の確固たる信仰の根拠であり、人間理解の原理である。神認識の場所は2章1415節に記述される通り、『たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。』と教える。

 

 

   神を知らない者にとっても神から与えられた「十戒の教え」の通り、すべきこととしてはならないことの道徳律がその人の心に認識・実践される時、人は神(又は神なるもの)を意識していると言う。

 

 

   「心」はだれもが感じる倫理道徳の価値基準の座である。善悪の判断の基準を持つ者にはその先に神認識がなされる。パウロはこう語る。『神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。』(2:6-11) キリスト者は更に自己実現に至る自己正当化から罪の深さを認識し、善なる意思があるにもかかわらず、自己の本心を欺いて悪なるものを隠そうとします。人はその者を偽善者と呼びますが、それだけではわだかまりが残ります。人は悔い改めて天からの啓示による洗礼を受け、自己のうちに真実の鏡を持つ事により、納得に行く平安な人生を送る事が出来るのです。最も高貴な人生とはその偽善性(=罪)を生きることなく、「善なるもの」に邁進して生きる事の出来る人だと言えるでしょう。

 

    神なき時代は地獄です。しかし使徒パウロは『悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。』(12:21)と常に私たちに呼びかけているのです。

 

 

 

 

 2020年二月 メッセージ(桜台教会『月報2月号』より)

 

     『人を義としてくださる神

 

               (ローマの信徒への手紙 3章31-37節)

 

                                             牧師 中川  寛

 

 

     人は自分の限界を超えた存在によって支えられ、受け留められていることを知った時、最大の力を発揮する事が出来る。正義に基づき真理を目指して自己投与できる生き方こそ尊いものと言える。その意味で早い時期から目標を定めて人生を生きる事が肝要である。

 

 

     使徒パウロはキリストへの信仰こそ豊かな人生を生きる礎となるものであることを教える。『だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。』(8:3536)と記す。日常の様々な困難の中にも一人一人の生活を支え、生きる命を支持し、勇気を与え励ます存在が大きな力を提供してくれる。それは見えないものではあるが確かな自分自身を支える愛の力である。パウロは十字架のキリストの執り成しの中に、自己の罪深さを認め、肉の思いを超えた他者を赦し生かす犠牲の愛を獲得していた。これがキリスト者共通の実体験である。パウロは続いて『これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。』(37)と言う。これは大きな賜物である。無味乾燥な時代のただ中にあって日々価値ある生き方を提供する大きな恵みの力である。

 

 

     先日西武地区の一致のための礼拝があり、日ごろ親しくして頂いている隣りの教会の名称について学ぶところがあった。それは「日本の国史」にも大きな影響を与えるものであるが、『大泰景教流行中国碑』についてである。いわゆる「ネストリウス派の異端」として深く学ぶことはなかったが、東方教会の足跡として見逃すことはできない。漢文で記された碑文の中にキリスト教信仰の本質を語った「三一論的キリスト論」が述べられている。『父・子・聖霊』の働きが述べられ、聖霊は淨風と呼ばれている。シルクロードの長い旅路を経て、学僧空海が705年西安の都で仏教を学んだ時期、時は「景教の時代」であったと言う。

 

 

     続いて12世紀の『東方見聞録』(マルコポーロ作)を読み、キリスト教信仰に裏打ちされ、クビライ・ハーンまでローマのキリスト教に関心を寄せた記事が語られていた。ジパングへの訪問こそならなかったが、シルクロードを旅させた原動力はキリストへの信仰の成果であったと言う。三一の神への信仰は歴史を切り開く原動力であった。この信仰が未来を拓く希望の光となると教えている。

 

 

  2020年一月 メッセージ(桜台教会『月報1月号』より)

 

     『わたしは信じた。それで私は語った』 

               (第二コリント書 4章7-18節)

 

                                                                                     牧師 中川  寛

 

 

    主の年2020年を迎えました。今年も皆様の上に豊かな主のみ恵みが満ち溢れますようにお祈りいたします。聖書のみ言葉に導かれ、キリストの福音に生かされ、変わりゆく歴史のただ中で神の普遍の真理に教えられて祝福された営みを生きる事が出来るとは何と喜ばしいことでしょう。

 

 

 

    使徒パウロが引用する詩編116編はこう記している。『命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。救いの杯を上げて主の御名を呼び満願の献げ物を主にささげよう主の民すべての見守る前で。』 (116:-4)

 

 

    この言葉に続いて「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。」(116:15)と語られる。昨年12月アフガンで中村哲医師がテロに遭われ逝去された事件は驚きと共に深い悲しみを覚えざるを得ない。私は『令和最初の殉教者』となられたと記したが、キリスト者医師として立派なご生涯を生きられたと深く感謝する。桜台教会は1991年秋、『風の学校』(岩波新書)で有名な中田正一先生の葬儀を行った。中田先生は国際協力会の先駆けとして先の東京オリンピック開催時、アフガニスタンでの農業事業の指導者として貢献された。荒れたアフガンの原野に眩い農作物を産出された。水のないところに「上総掘り」の井戸を掘り、アフガンの人々に生きる希望を提供されたのである。後に国際青年協力隊員として発展途上国に出向いた多くの人々は先生から農業開発の指導を受けられた。アフガン戦争により再び疲弊した国土の開発のため医者である中村医師が用水路建設をもって同じく緑豊かな復興を成し遂げられたさ中、テロリストの凶弾に倒れられたことは痛ましい限りである。ご遺族の方々、関係者の方々に慰めを祈りたい。

 

 

 戦後バプテスト教会宣教師として貢献されたカール・ハルヴァーソン先生夫妻、ボブ・サザーランド博士夫妻は積極的に西南学院中高の国際交流に貢献された。生前既にご高齢であったが、先生方がお元気な折日米交流委員会の下でCUPPCollege & University Partnership Program)の活動を盛んに推進された。私もその一端を手伝わせていただいたが、戦後西南学院の中高生を支援され続けたことを思い起こす。

 

 

 「令和の新年」に当たり福音による魂の強化と共に、豊かな国際交流を通じて希望ある諸活動の前進を図りたい。すでの多くの先達諸氏達が見事な福音の手本を見せて下さっているからである。

 

 

  12月メッセージ(桜台教会『月報12月号』より)

 

 

       『言は肉体となって、わたしたちの間に宿った』

 

                 (ヨハネ福音書 1章14節)

 

                                   牧師 中川  寛

 

 

  2019年クリスマスを迎え、私たちはさらに大きな夢と希望を抱き新年を迎えようとしています。日本の元号で言えば令和2年となりますが、2020年は東京オリンピック開催の年であり、夏の開催に至るまで尚幾多の喧騒を経る事でしょう。しかしこの慌ただしい時代にも拘わらず聖書は神の独り子イエス・キリストの誕生を語り続けます。

 

  ヨハネ福音書は『はじめに言(ことば)があった。』と語り、言が肉となって私たちの間に宿ったと記します。「言」はギリシャ語でロゴスですが、これは単に言語を表すものではなく、哲学的な「理法(法則)」を表す言葉でした。哲学者ヘラクレイトスは「万物が流転する」中で不変なる根源的存在を問うた時、宇宙の第一原理(アルケー)をロゴスと表したものです。これはソクラテスがヘラクレイトスの哲学を要約した言葉と言われますが、ヘラクレイトスはロゴスを流転しないもの、不変なるものと捉えていたのです。また日本最初の翻訳聖書ギュッツラフ訳では、江戸時代の漂流漁民の宗教的知識から学んで、『ハジマリニカシコキモノゴザル』と訳しました。「ロゴス」は神を意味する「カシコキモノ」だったのです。また神の居場所を「ゴクラク」と訳しています。

 

 以下ヨハネ福音書1章から

 

  【ハジマリニ カシコイモノゴザル コノカシコイモノゴクラクトモニゴザル コノカシコイモノゴクラク。

 

ヒトハミナ コトゴトクツクラル ヒトノナカニイノチアル コノイノチハニンゲンノヒカリ。】 

 

 

 

  クリスマスは神の御子の誕生を受け入れる事から始まります。それは無味乾燥な世に見える世界に新しい命をもたらす出来事として語られています。不思議なことにキリストの誕生を知らされたのは羊の群れの番をしていた羊飼い達であり、東方から来たマギと呼ばれる天文学者達だけでした。しかし預言者達によって語られたメシアの誕生の予告を人々は世々に亘って聞かされていたのです。

 

  不条理な社会に神の正義がもたらされ、愛と平和、真実と公平を実行される神の御子がその主権を発揮される時が来る。悪と不正は退けられ、人々の魂の喜びが共有される環境が選ばれたメシアによって整えられて明らかにされる。預言の成就により主イエスは言葉をもって執成していて下さるのです。『心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。』(マタイ5:1-6) クリスマスを通して私たちはこの現象を我がものとする事が出来るのです。

 

 

 

 

 

 

   11月メッセージ(桜台教会『月報11月号』より)

 

     『混沌(カオス)の中での新しい生の始まり』

 

              (ローマの信徒への手紙3章21-26節)

 

                          牧師 中川  寛

 

    世界中で異常気象の所為か自然災害が多発している。気象温暖化によるものとの判断でCO2削減が求められているが災害は待ってはくれない。風水害はもちろんの事、人災か自然発生かは不明であるが火災も多発している。個人の大切な住居も文化財も瞬く間に灰塵に帰する。更なる不安は不法移民による社会の変質化、生活不安から起きる暴動と世界は将にカオスの時代に突入したと思わせられる。正義が蹂躙され貧富の格差が助長され、規律違反が横行し混乱が人々を不安へと駆り立てる。暗い時代ではあるが教会が語る福音による明るい光明を見失ってはならない。

 

 

    神なき社会において人間の悲惨さは助長される。しかし正義と平和、愛と希望の世界を築く務めを果たすものには新たな可能性が見出される。聖書は常にこの希望の根拠を語り続ける。それは新しい人間改造によって実現されるものである。

 

 

    パウロは『ところが今や、律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立てその血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。』(ローマ3:2125)と語る。十字架のキリストによる再創造が求められるのです。キリストの十字架には死と生の弁証法が啓示され、贖罪愛(アガペー)の原理が開示されている。人は一度自己に死に、十字架のキリストに再生されて新しく生きる道が開かれるのです。それは罪赦されて復活の希望に生きる道を生きる事によって約束されています。キリスト教会ではこれを洗礼式により象徴的に具現します。洗礼を受けるとはキリストと共にこの再創造を自覚的に所有することを意味するのです。

 

 

    新しい光明はキリストの十字架の中に輝いている。キリストの言葉に力があるのはこの十字架を通して人々に語られているからです。そこにはこの世と神の権威との大きな断絶があります。再創造されることなく地上に希望を持つ事はやがてすべてが雲散霧消し、無に帰する事となります。新しい希望は復活の力によって本義を発揮するのです。

 

 

    カオスの中にも寡黙に良きわざに励む人々がいます。各自の動機は異なっていても他者のために犠牲を厭わない生き方を選び取る事が出来れば立派な人生を歩む事が出来ます。その道は険しいものですが、人生の規律を守って生きる事が出来れば聖書はその人は善かつ忠なる僕と呼びます。

 

 

 

 

 10月メッセージ (桜台教会『月報10月号』より)

 

     『主の山に備えあり』  創世記22章1-19節) 

 

                                      牧師 中川  寛

 

 

   創世記12章から始まるアブラハム物語はユダヤキリスト教史の最初の信仰者であるアブラハムの生涯を記している。ヤハウエなる神の声に聞き従った最初の族長である。彼の故郷はカルデアのウルと言われる。父テラと共に一族はユーフラテス川の上流の町ハランに移住した。その理由は聖書に明記されていないが、父の死後アブラハムは神の言葉に従って約束の地カナンに移り住む。恐らくは民族の内紛と対立から一族の生存と平和を求めて新天地に向かうことを決断したのであろう。聖書は神による祝福の約束と信仰による新たな希望に生きる選択をしたことを記している。

 

 

   人生にはいくつもの新しい決断の時がある。その決断が果たして良かったのか、間違っていたのか早急に判断することはできない。その終極において満足と納得のゆくものであれば良かったといいうる。しかしその終わりに負の遺産を残すものであれば、人は必ずしも同意するものではないであろう。特に今の時代はできるだけ間違いのない道を歩みたいと願うのは万民の思いである。

 

 

   四千年もの歴史を遡って今日を生きるユダヤ人は神と共に生きる神の民と言われるが、アブラハムに端を発する信仰の歴史は多くの学ぶべき知恵と教訓を与えている。厳しい時代を生きる現代人にはより深く耳を傾けることが求められる。

 

 

   アブラハムは次々に起こってくる諸問題に自信を持って対処した人物ではなかった。妻であったサラもアブラハム同様高齢者であった。しかも彼らにはまだ跡取りとなる子供がなかった。アブラハムは止む無くエジプト人の下女ハガルとの間に子を儲けるが、神はサラとの間に生まれる子が跡取りとなると宣言し、御年百歳になってイサクが誕生したという。子供が生まれたことによりサラとハガルの間に激しい確執が起こり、遂にハガルとその子イシマエルを追い出すこととなる。サラの勝手な手法もゆるし難いが、神の約束は反故にされることはなかった。しかし神はその独り子イサクをモリヤの地に連れて行き燔祭の犠牲として捧げよと命じた。通常では理解しがたい事であるが、神はアブラハムの信仰の真偽を確かめるために敢えてそのように命じられた。信仰の世界における不条理は様々な場面に描かれているが、もし自分がその当事者になれば決して受け入れられないことであろう。親の身勝手で子を死に追いやってはならないのは当然である。しかし神はその本心を見てイサクに手をかけてはならないと宣言された。そして雄羊をもってその犠牲に変えられたという。この徹頭徹尾神に従う姿勢を神は歴史の鏡にされたのである。

 

 

 

 

【聖書】  創世記22章1-19節

 

 

◆アブラハム、イサクをささげる

 

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

 

 

 

 

   九月メッセージ (桜台教会『月報9月号』より)

 

 

 『恐れるな、語り続けよ。この町には、わたしの民が大勢いる。

 

    (使徒言行録 18章9-11節)

 

                

 

                                             牧師 中川  寛

 

 

  使徒言行録には初期キリスト教の伝道の様子が詳しく記録されている。二千年後の今日も伝道の様子は同じであることが解る。特に使徒パウロの伝道の勢いは日々困難の連続であった。紫布を商う婦人の熱意によりマケドニア州に渡りアテネで宣教し、コリントに渡った事情が記されている。彼はディアスポラ(離散のユダヤ人)のラビとしてアジアで活動していたが、メシアはイエス・キリストであることを知り使徒となった。伝道の足掛かりにしたのはユダヤ人の会堂であり、ユダヤ人への宣教が基礎となっていた。しかしモーセの律法に固執する多くのユダヤ人は彼の言葉を受け入れなかった。記録によれば『パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。』とある。敢えて言えば、ユダヤ教から鞍替えした裏切り者の説教は聞けないとの反感である。

 

  

 

  そんな中でも喜びの改宗者が出たことを報じる。『会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。』とある。伝道の報酬は喜びの成果である。困難の中にも神の働きを見る事が出来る。さらに言葉は『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』と続く。不思議なことだが、信仰者が困難に出会うと幻によって主の言葉が語られ、新しい力を受ける。物事は常に因果的に決定されているわけではない。神のヴィジョンが信仰者を導くのである。その基本は残された幾多の知恵であり、新しい構想力である。常に上を見上げ、周囲に目をやり、心をキリストに向ける時、新しい道が開かれる。パウロは励まされてコリントに一年六か月滞在して神の言葉を教えたとある。

 

 

 

  人は一人で偉業を達成するものではない。一人で形成された成果はどんな組織であっても、時と共にすぐに瓦解する。今はその現象が激しい。政治、経済において、国際関係において同様の現象が生じる。しかしそこに真実と正義が加わると新しい力を得る。人生においても事柄は同じである。より良い絆が結ばれるとその関係は長く生きる。信頼の交わりは必ず継続する。しかしエゴイズムがはびこり、嫉みが生じると組織は破壊される。心通わせる関係の保持には互いに褒め、激励し合うことが求められる。その為には心を開いて信頼できる人間関係の構築が求められるのである。使徒パウロを支えたのは「恐れるな、この町にはわたしの民が大勢いる。」との復活の主イエスの激励の言葉であった。それは今日の私たちにとっても同じことと言える。

 

 

 

【聖書】  使徒言行録 18章9-11節

 

ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」 パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。

 

 

 

 

 八月メッセージ(桜台教会『月報8月号』より)

 

 

 

   『互いに重荷を負い合いなさい。』   桜台教会 牧師 中川  寛   

                                   

 

長い梅雨がようやく空けて酷暑の夏を迎えた。日本のみならず世界中で乾燥と異常な暑さの為山火事が起き、通常クーラーを必要としない英国、フランスも涼と水を求めて民衆が右往左往している。日本の暑さも尋常のものではない。熱中症で倒れる方も大勢出ている。救急車の出動回数も相当なものだ。さらに国際関係がおかしくなっている。自国優先の政治経済もやりすぎは困るが、生活が成り立たないのでは致し方ない。このままでは生きて行くことそれ自身が四面楚歌である。また伏見の京アニ爆破火災にみるとおり、自己優先の価値意識で周囲の人々はどうでもよいとの異常変質者が社会を攪乱する。まったくもって悲しい事件が相次いで起きている。

 

 

    聖書はこの根本原理を人間の罪の問題と捉える。創造者なる神を否定し、有限な人間の本性を是とする。しかしアダムに起因する罪はやがては破滅と死を招く。「罪の終極は死である」と使徒パウロが語る通り神を持たざる人間の現実はすべて無に至る。戦争経験のない現代人は理性と科学理論に基づいて生を肯定するが、神なき人生において存在それ自体が悪魔化することを深く自覚しなければならない。戦争の負の遺産はそう簡単に消えるものではない。個々の人生においても生涯負い続けなければならない悲しみがある。国家間においては更に負の足枷が深く絡まる。しかし過去に振り回されるだけでは進展はない。人はある時奮起して過去を断ち切り、新しい道に踏み出さねばならない。その契機をもって初めて人生の生きがいを誇示することができる。

  

 

 使徒パウロは常に自己の限界を覚えつつ、それを克服する起点を持ち続けた。その起点がキリストによる愛と罪の赦しの福音であった。その福音とはこの世のものではない。十字架の贖罪を通して示されたキリストの愛と赦しの経験から来る新しい霊の力である。この力を得て前進し、成長する事が出来るのである。浅はかな信仰者は日常の務めが負担になればすぐ責任転嫁するか、自己の責任を放棄し逃亡する。それらはすべて偽善者の常とう手段である。キリスト者はそうであってはならない。信仰に留まり正義を貫徹することにより真の価値と勝利を獲得する事が出来るのである。

  

 

   パウロは勝手気ままなガラテヤの人々に「互いに重荷を負い合いなさい」と勧めた。ラグビーでは正しくスクラムを組むことが勝利を呼ぶ。重荷を負い合うとは他人の嫌がる事を率先垂範して責任を果たすことである。暗い時代ではあるが、重荷を担い合う中において栄光の勝利が見えてくる。今、時代は危機的状況にあるが、福音に命を懸けて生きる時、勝利の道が見えてくる。

 

 【聖書】  ガラテヤの信徒への手紙 6章1-5節

 

兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  七月メッセージ(桜台教会『月報7月号』より)

 

 

 

 『大混乱の中で神の知恵を知る人々』   桜台教会 牧師 中川  寛

 

 

 

六月末、大阪で開催されたG20宣言「強固な世界経済の成長の情勢」セッション中の貿易と投資項目において『我々は自由、公平、無差別で安定した環境を実現し、市場開放に努力する。』との言葉が明記された。経済の不公正が世界の不安を招くことは言を俟たないが、同時に文化、宗教の違いも大きな誤解を生む。

 

 

使徒言行録は激しい迫害の中で使徒たちが勇敢に、平然と福音を宣べ伝えていた様子を記す。反対者たちは嫉みによって彼らを投獄したが何者かによって解放され、神殿の境内でキリストの贖罪による新しい救いの事実を宣べ伝えていた。

 

 

 反対派はさらにキリストの名を掲げる人々を攻撃しようとしたが律法学者ガマリエルはある事件の例を取り上げ、議員たちに向かって『あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。』(5:38,39)と説得した。

 

 

世界は今もなお大混乱の中にある。米国は強大な軍事力を持ち、同時にその威力をもって世界を統治しようとしている。また大統領は戦争をしないと言うが、その真偽のほどはまだ不明である。私は馬鹿正直にそうであってほしいと信じているが、他者はどうであれ、崇高な倫理性を持つ聖書の福音に生きる者は『神を畏れ、正義と平和に生きる』道を糺さねばならない。ガマリエルが深い知恵を説く通り、その思いが人間から出たものならば自滅するだろうし、神から出たものならば神に逆らう者とされることとなる。

 

 

フランス革命が『自由・平等・博愛』をもって国家の基礎としたことは継承されなければならないが、聖書的理解なしにこれを標榜するならば、愚かな人間愛の自己肯定で終わってしまう。その背後にある福音的聖書的規範を理解することなく博愛を実行することはできない。米中、米朝、米イラク等の対立をどのように解消できるかは未だ闇の中であるが、聖書的原理に従えば福音賛美の中で新しい希望が見えてくるに違いない。

 

 

社会的諸問題に圧倒される品疎な日々の自分を悔い改めて、神と共に生きる大胆な生き方が求められる。それは贅沢な生き方をする事ではない。贖罪の主、キリストと共に自己に負けず、この世に負けない生き方を選び取る事である。聖書の神は従う者を欺くことはしない。見捨てることはしない。悔い改めをもって主と共に翻って生きる事が求められている。同時に日々の努力を怠ってはならない。キリストの眼が私たちに向けられている事を常に誇りに生きるのである。

 

 

 

【聖書】  

使徒言行録 5章17-42                                     

 

そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、 使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。 ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。 これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。 下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。

 

 5:23 「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」 この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。 そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。 そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。

 

 

 

 

   六月メッセージ (桜台教会『月報6月号』より)

 

   

 

   『新しい主の民の上に、霊の力が降り注がれる』

 

                    (ヨエル書 3章1節)

 

               

 

            桜台教会 牧師 中川  寛

 



 

   キリスト昇天後、約束の聖霊が降った。キリストの福音は人種、種族、文化、地域を越えて全世界に宣べ伝えられ、信じるものに自由と喜びをもたらしている。二千年前の出来事であるが、エルサレムの二階座敷に集まっていた人々の上に聖霊が降り、祝福された神の民の集団が誕生した。主にある希望に生き、信仰と希望と愛をもって貧しき人々の上に喜びに生きる神の祝福を示した。人々は教会と共にその福音による新しい人生の喜びと平安を知った。 

 



 

   今日その福音の源流に生きる人々が世界を変えつつある。米国のトランプ大統領を含むアメリカの新しい福音主義の人々を『反知性主義』と位置付けてその活動に注目している。ある日本の保守派評論家は「彼(トランプ大統領)は日本で言えば田中角栄、小泉純一郎のような存在だ」と言う。この『反知性主義』なる言葉はICUの森本あんり氏がトランプ旋風を紹介する書物で米国の歴史的思潮の一つとして使った言葉であるが、ようやくトランプ大統領の政策の根幹が認知されるようになった。米国東部のアイビーリーグと呼ばれる名門大学の多くは牧師養成の神学校として建てられた学校であることを認識し、紹介し始めた。日本人インテリの大半が米国政治のキリスト教的背景を単なる新興宗教勢力としてか理解できていないのは残念なことである。

 



 

   しかしだからと言って米国社会が格差社会から直ちに立ち直るわけではない。いまだに各地にホームレス村が多数存在する。失業率が回復されたと言っても一部の人々に留まっている。高齢化が進み、貧困化に歯止めがかからない。薬物依存と犯罪、家庭崩壊、教育困難世帯も存在し、中国政府への関税率25%問題での悪影響も出ている。サン・ノゼ、シリコンバレーにあるIT企業も税金の安い地域に移転していると言う。海外に移っていた企業も米国への引き戻しに躍起になっている。すべて20年の間に財政と知的財産が中国に吸収されたためである。日本も同様の事が起こっている。経済的危機は更に消費税アップの増税政策で弱者は金縛り状態である。 しかし私は米国の姿勢を支持したい。その背後にキリスト教共通の文化理念があり、福音的な新しい霊の存在を共に仰ぎつつ、信仰を持った人々による社会改革の取り組みがなされていることを見るからである。

 



 

  秋から日本でラグビーワールドカップが始まるが、文化・社会の形成には時間がかかるが、継続され続けなければ成果を見る事が出来ない。乳飲み子がミルクを慕うがごとく、霊的な福音の滴りを欠いては国家の本当の成熟はない。その意味でもジャパンRUGBYが日本文化形成の原動力になるとの認識がなされなければ、実(じつ)のある豊かで強固な日本文化が形成されることはない。

 

 

 

 

 

 

 5月メッセージ 『月報5月号』より

 

 『エマオから再びエルサレムへ―あの時心が再び燃えた-』                                                   (ルカ福音書 24章13~35節)

 

                                                                 牧師 中川  寛

 

 

 

 今年のイースターは4月21日(日)であった。春分の日の後の満月の次の日曜日は復活祭であると決められている。イースターの遅い年は春の到来も遅いと言われている通り、気象異常かと思われるほど寒い日も続いた。それに受難週の災難が世界中で起こった。ノートルダムの火災、高齢者運転による死傷事故、公共バスによる事故など予想外の事故が多く起こり、スリランカ爆発テロ事件も250名を超える死者を出した。世界全体が魑魅魍魎跳梁跋扈する不安な時代と化してしまった感がある。しかしそれでもキリストの復活を祝うイースターのお祝いには特別な意義がある。

 

 

 

 ゴルゴダの丘の上で成し遂げられた不条理なキリストの十字架による処刑は、息を引き取られたキリストの死をもって終わりではなかった。聖書に予告された通り、三日目に死人の中からよみがえられた不思議な出来事により、キリストを拒否し裏切った弟子たちの上に新しい世界が広がった。キリストと共に生活した婦人たちの告知により、遺体の納められた墓所は空であったことを確認した。そして復活の事実が弟子達にも伝えられることとなった。復活されたキリストは愛と赦しの言葉をもって弟子たちと再会され、彼らを新しい希望と喜びに生きるものとされた。彼らにはあの過去の裏切りと挫折の体験が空しいものとなったのではなく、新しい意味と価値をもって宣教活動の指針とし、教会形成の礎とされた。

 

 

 

 教会は主の復活の証人の群れとして新しい人間社会の目標となり基準となって福音を証しする群れとして成長する団体となった。復活されたキリストはまことの弟子たちに愛と赦しを与え、希望をもって生きる事を教えられる。ルカ福音書はキリストと行動を共にしつつ、処刑されたキリストの悲しみを心に留め、故郷に寂しく帰る二人の弟子に寄り添って、主が生きておられる事実を体験させ、再び彼らを立ち上がらせた事実を伝える。復活信仰を得て彼らは生かされる力を得ることができた。これらはすべて彼らの本当の体験から出たことばであったと思われるが、ルカはこのように記す。『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。』

 

 

 

 挫折と絶望を経験し、憔悴しきった心で故郷のエマオへ向かう彼らの思いを再び燃え立たせたキリストの言葉。共にパンとぶどう酒を頂き、かつてのキリストと生きる情熱を体得させてくれた復活の経験はエルサレムに結集した弟子たち一人一人の大きな再生への決断として確認されたのである。ここに私たちの生きる希望があるのである。

 

 

 

 

  4月メッセージ 『月報4月号』より

 

 

   『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか

    知らないのです。』

 

 

                 (ルカ福音書 23章34節)

 

 

       牧師 中川 寛

 

 

 

   イースターの遅い年はいつまでも寒いと言われる。今年は4月21日(日)なので通常より一か月遅い。しかしイースターは確実に春をもたらす。キリストの復活を喜ぶこの時期、世界は新しい希望にあふれるに違いない。混沌として世界情勢もこの福音を通じて安定に向かうと予測される。しかし政治と経済はますます混迷の度を深める。人間の深い罪から来る願望が善きものを否定し自我を優先させるのである。

 

 

 

   聖書は神の子イエスキリストの十字架の死の出来事を正確に伝えている。ゴルゴダの丘に建てられた3本の十字架がそれを表している。真ん中の一本はイエスキリストの十字架である。贖罪者キリストは罪なき身でありつつ、この世の罪の為に宥めの犠牲となられた。贖罪のキリストを通じて神の救いの真理が掲示される。世界が贖われるためには贖罪者キリストを知る以外に救いの道は開かれない。キリストの十字架にこそ愛と赦しの真理が告げられているのである。罪の赦しはキリストの贖罪を受け入れて初めてもたらされる。人類の英知を超えた罪の赦しの愛(アガペー)が照らしだされるのである。人の魂はこの愛に出会って新しくされる。それゆえにキリスト教は十字架の宗教と呼ばれる。ここに救いの根拠があるからである。

 

 

 

同じ十字架に就けられた犯罪人の一人はメシアキリストを見ながら「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と言った。するともう一人の人が「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」とたしなめたと言う。 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったところキリストは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

 

 

神による道理を知る者は自己の醜さと人間の限界を知り、神に至る救いの力に自らを預ける。そこに信仰者の生き方が生まれる。しかし苦しみからの解放を願う者は単なる欲得の生き方から脱する事が出来ない。魂の救済はこの世の道理を知らされて手にすることができるものである。議員や民衆も興味本位にゴルゴダの丘の上に立てられた十字架を見てあざけり、「神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と言ったと記す。兵士たちも「「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」侮辱したと言う。

 

 

 

   人はこの時今一度何が真理で人を生かす福音かを見極めねばならない。しかしその原理はやはり聖書に基づいている事を見のがしてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三月メッセージ  『月報3月号』より

 

 

       『岩の上に家を建てる』

 

                 (ルカ福音書 6章46-49節)

 

 

                      牧師 中川  寛

 

 

 

主イエスは弟子たちを前に多くのたとえで福音を聞いた人々に生き方を教えられた。それは『岩の上に家を建てた人』に似ていると言う。ルカ福音書と共にマタイも同様に記しているが、これは大事なことである。人生は春の嵐に譬えられるが、様々な危機に対処する方策は人それぞれである。誰もが同じように人生の荒波に遭遇するが、すべての人が荒波に飲み込まれる訳ではない。

 

  様々な艱難辛苦を経験しても、無事その荒波を克服し勝利をつかんだ人もおれば、危機を回避して平安無事に生きた人もいる。人生の目標は皆が充実した平安の日々を送る事でなければならない。

 

 

 

  主イエスは身をもってその生き方を教えられた方である。特に若い時から正しい教えに学び、良いものを目指して努力することが求められる。そうすれば人生は各人平等に与えられた機会を生きる事が出来る。特に親たるものは家庭において子供たちの良い手本にならなければならない。人生の基礎工事はまず家庭教育にある。親たるものが何を目指して生きているかが子供の大きな感化力となる。それは日々の積み重ねであって、やがて子供が成人となる時、その努力が結実するのである。信仰は困った時の神頼みではない。

 

 

 

 「家を建てる」とはオイコドメオという言葉から来ている。それが英語ではエコノミーとなり、世界教会主義を表すエキュメニカルの元となっている。経済の語源もまた家を建てることから始まる。家を建てること、それは家族を育成する事であり、血族を永続させることでもある。封建時代の家族主義ではない。武士道の精神でもない。聖書が教える人生を貫徹する人間の各人の目標なのである。それゆえ主イエスは『 わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。』と語られる。今、家が壊れている。家庭が崩壊している。社会が混乱している。世界が不法社会となっている。これらを立て直すのがキリスト者である。それは又キリストの命令でもある。

 

 

 

 春の嵐に身を潜めていては前進できない。成長できない。発展しない。キリストの共同体は今一度キリストと共に「家を建てる」努力をしなければならない。それは信仰の始め初心に立返る事である。

 

 

 

 

 

 

二月メッセージ

 

 

       『神を知るとは』  (ルカ福音書 6章43-45節)

 

                                牧師 中川 寛

 

 

 

人はそれぞれに神の居場所を求めている。その居場所を突き留めても神が神として人に語りかけてくれるとは限らない。多くの人はそれ故に神を信じない。否、神にあらざるものを神とし一時を満足して過ごすことになる。聖書は「神は創造者であり全能者である」と語る。実は人間は被造物であるに過ぎないものだが、不完全であるがゆえにより完全なものを求めようとするのである。

 

 

 

 

    神は人の心を照らされる存在である。その心には善悪の判断基準が明確に示される。福音書はわかりやすくこう語る。『悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(ルカ6:43-49) すなわち口から出る言葉は良い心を持っている時には良い言葉が放たれ、悪い心を持っている時には悪い言葉が放たれる。それによって人が喜ぶ時もあれば言葉によって苦しみ、関係を破壊する。常に良い言葉を放つよう努力したいものであるが、本質的に自己中心である我々は損得勘定を優先する。これが罪なのである。人間が存在するところには常に付きまとう悲しい性(サガ)というべきものである。醜いサガを脱するためにも正しい神を求めなければならない。

 

 

 

 

普遍妥当性を持ち、永久不変の神を獲得するにはどうすべきか。私は神の言葉である聖書を知る事が第一であると確信する。同時に神の言葉である聖書を生み出した教会の本質を学ぶこと、そしてその集大成であり要約である『信仰告白と使徒信条』を知る事に尽きる。教会の伝統には制度としての「教皇制(教職制)」が存在するが、制度的教会は時間と共に変質し、時代と共に堕落する。しかし『信仰告白』は言葉として常に新しい神の恵みをもたらす。さらに伝統としての聖礼典がその意義を増し加える。それらはすべて単なる形式ではない。言葉と共に実態を明らかにする。これを体得することが良い実をもたらす信仰者として時代に光を灯す事が出来る。

 

 

 

 

 現代社会は頼るべき希望の根拠を欠いている。偽善がはびこり、虚偽が世を支配している。人は負けじと悪に走る。結果的には希望の光である幼子さえ犠牲にしてしまう。どこで誰がどの様にしてこの悪しき弊害を打ち破るのか。キリスト者はまず信仰に目覚めて神と共に立上がらねばならない。お金のあるところに人は集まるが、真実な言葉のあるところに栄光と繁栄がもたらされるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 2019年 一月メッセージ(桜台教会『月報1月号』より)

        『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』

                (ルカ福音書 2章21-22節)

                            牧師 中川  寛

   ルカ福音書はイエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時、『天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で降って来た。』と記す。そして『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえたと言う。「聖霊が鳩のように目に見える姿で降って来た」とは誰にでも体験できることだろうか。目には見えないが大きな神の働き掛けがイエスの上に起こったと明言する。キリスト者は祈りの中で聖霊の働きを体験する。熱狂的な異常現象が生ずるのだろうか。そうではない。大いなる善性に触れた時、人には人格的な変化が起こる。真剣に祈る人の感化力が及ぶ。聖霊の働きは人格的な感化力を産む。

 

 

 

人間の感化力は一時的な興奮を生じさせるが、聖なる感化力は生涯に亘ってその人格を聖化する。神が御子イエス・キリストに語りかけられた時、キリストご自身が聖霊によって聖化され、言葉が力を発揮して神の子としての歩みをなさせたのである。私たちも聖霊に導かれた時、祈りは奇跡を産む。通常では信じられない結末をもたらす。神は一人一人の心に語りかけられて、神の業を行う者へと導かれるのである。ナザレのイエスをメシア・キリストであると告白させる力は信仰に基づいてその祈りを実現される。それは神への信頼がもたらす祝福の成果である。祝福の証しである。信仰はキリストにおいて生きた神の恵みをもたらすものとなる。

 

   『信仰・希望・愛』の三位一体は聖なる結びつきをもって相互に私たちを正しい道に導く救いの原理である。キリストへの誠実な信仰が私たちの神関係を糺し、日常生活を神信仰へと導くものとなる。希望に生きる事は将来の可能性を望み見て生きる事ではない。生涯に亘って神への希望を持つことが真の自己実現を可能にする。そうでなければ希望は失望に至り試練によって挫折に至る。愛とはキリストの十字架の愛が根拠となる。贖罪愛が人を正しく導く力となる。これを導く原動力は祈りとみ言葉の習熟度によるのである。

 

 

 

   洗礼を受けてから教会から、又信仰から離れる人が多い。残念なことだが、「自由」についてのはき違いが信仰者を混乱へと導くこととなる。信仰者は信仰の原点に立ち返らなければならない。そして信仰の根拠を自明のものとしなければならない。世の論者によれば2019年から世界は大きな迷路に入り込み、更なる混乱と政治的社会的危機を産むと言う。多くの偽善的言舌が世を攪乱し、世界を混乱へと向かわせる。人心の荒廃は深化し、貧富の格差が増大する。人々は何をもって自己の崩壊を食い止める事が出来るか。信頼の回復は何をもって再建するか。その解決の道は聖書と教会の教理の学びの中に明示されているのである。