12月メッセージ(桜台教会『月報12月号』より)

 

 

       『言は肉体となって、わたしたちの間に宿った』

 

                 (ヨハネ福音書 1章14節)

 

                                   牧師 中川  寛

 

 

  2019年クリスマスを迎え、私たちはさらに大きな夢と希望を抱き新年を迎えようとしています。日本の元号で言えば令和2年となりますが、2020年は東京オリンピック開催の年であり、夏の開催に至るまで尚幾多の喧騒を経る事でしょう。しかしこの慌ただしい時代にも拘わらず聖書は神の独り子イエス・キリストの誕生を語り続けます。

 

  ヨハネ福音書は『はじめに言(ことば)があった。』と語り、言が肉となって私たちの間に宿ったと記します。「言」はギリシャ語でロゴスですが、これは単に言語を表すものではなく、哲学的な「理法(法則)」を表す言葉でした。哲学者ヘラクレイトスは「万物が流転する」中で不変なる根源的存在を問うた時、宇宙の第一原理(アルケー)をロゴスと表したものです。これはソクラテスがヘラクレイトスの哲学を要約した言葉と言われますが、ヘラクレイトスはロゴスを流転しないもの、不変なるものと捉えていたのです。また日本最初の翻訳聖書ギュッツラフ訳では、江戸時代の漂流漁民の宗教的知識から学んで、『ハジマリニカシコキモノゴザル』と訳しました。「ロゴス」は神を意味する「カシコキモノ」だったのです。また神の居場所を「ゴクラク」と訳しています。

 

 以下ヨハネ福音書1章から

 

  【ハジマリニ カシコイモノゴザル コノカシコイモノゴクラクトモニゴザル コノカシコイモノゴクラク。

 

ヒトハミナ コトゴトクツクラル ヒトノナカニイノチアル コノイノチハニンゲンノヒカリ。】 

 

 

 

  クリスマスは神の御子の誕生を受け入れる事から始まります。それは無味乾燥な世に見える世界に新しい命をもたらす出来事として語られています。不思議なことにキリストの誕生を知らされたのは羊の群れの番をしていた羊飼い達であり、東方から来たマギと呼ばれる天文学者達だけでした。しかし預言者達によって語られたメシアの誕生の予告を人々は世々に亘って聞かされていたのです。

 

  不条理な社会に神の正義がもたらされ、愛と平和、真実と公平を実行される神の御子がその主権を発揮される時が来る。悪と不正は退けられ、人々の魂の喜びが共有される環境が選ばれたメシアによって整えられて明らかにされる。預言の成就により主イエスは言葉をもって執成していて下さるのです。『心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。』(マタイ5:1-6) クリスマスを通して私たちはこの現象を我がものとする事が出来るのです。

 

 

 

 

 

 

   11月メッセージ(桜台教会『月報11月号』より)

 

     『混沌(カオス)の中での新しい生の始まり』

 

              (ローマの信徒への手紙3章21-26節)

 

                          牧師 中川  寛

 

    世界中で異常気象の所為か自然災害が多発している。気象温暖化によるものとの判断でCO2削減が求められているが災害は待ってはくれない。風水害はもちろんの事、人災か自然発生かは不明であるが火災も多発している。個人の大切な住居も文化財も瞬く間に灰塵に帰する。更なる不安は不法移民による社会の変質化、生活不安から起きる暴動と世界は将にカオスの時代に突入したと思わせられる。正義が蹂躙され貧富の格差が助長され、規律違反が横行し混乱が人々を不安へと駆り立てる。暗い時代ではあるが教会が語る福音による明るい光明を見失ってはならない。

 

 

    神なき社会において人間の悲惨さは助長される。しかし正義と平和、愛と希望の世界を築く務めを果たすものには新たな可能性が見出される。聖書は常にこの希望の根拠を語り続ける。それは新しい人間改造によって実現されるものである。

 

 

    パウロは『ところが今や、律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立てその血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。』(ローマ3:2125)と語る。十字架のキリストによる再創造が求められるのです。キリストの十字架には死と生の弁証法が啓示され、贖罪愛(アガペー)の原理が開示されている。人は一度自己に死に、十字架のキリストに再生されて新しく生きる道が開かれるのです。それは罪赦されて復活の希望に生きる道を生きる事によって約束されています。キリスト教会ではこれを洗礼式により象徴的に具現します。洗礼を受けるとはキリストと共にこの再創造を自覚的に所有することを意味するのです。

 

 

    新しい光明はキリストの十字架の中に輝いている。キリストの言葉に力があるのはこの十字架を通して人々に語られているからです。そこにはこの世と神の権威との大きな断絶があります。再創造されることなく地上に希望を持つ事はやがてすべてが雲散霧消し、無に帰する事となります。新しい希望は復活の力によって本義を発揮するのです。

 

 

    カオスの中にも寡黙に良きわざに励む人々がいます。各自の動機は異なっていても他者のために犠牲を厭わない生き方を選び取る事が出来れば立派な人生を歩む事が出来ます。その道は険しいものですが、人生の規律を守って生きる事が出来れば聖書はその人は善かつ忠なる僕と呼びます。

 

 

 

 

 10月メッセージ (桜台教会『月報10月号』より)

 

     『主の山に備えあり』  創世記22章1-19節) 

 

                                      牧師 中川  寛

 

 

   創世記12章から始まるアブラハム物語はユダヤキリスト教史の最初の信仰者であるアブラハムの生涯を記している。ヤハウエなる神の声に聞き従った最初の族長である。彼の故郷はカルデアのウルと言われる。父テラと共に一族はユーフラテス川の上流の町ハランに移住した。その理由は聖書に明記されていないが、父の死後アブラハムは神の言葉に従って約束の地カナンに移り住む。恐らくは民族の内紛と対立から一族の生存と平和を求めて新天地に向かうことを決断したのであろう。聖書は神による祝福の約束と信仰による新たな希望に生きる選択をしたことを記している。

 

 

   人生にはいくつもの新しい決断の時がある。その決断が果たして良かったのか、間違っていたのか早急に判断することはできない。その終極において満足と納得のゆくものであれば良かったといいうる。しかしその終わりに負の遺産を残すものであれば、人は必ずしも同意するものではないであろう。特に今の時代はできるだけ間違いのない道を歩みたいと願うのは万民の思いである。

 

 

   四千年もの歴史を遡って今日を生きるユダヤ人は神と共に生きる神の民と言われるが、アブラハムに端を発する信仰の歴史は多くの学ぶべき知恵と教訓を与えている。厳しい時代を生きる現代人にはより深く耳を傾けることが求められる。

 

 

   アブラハムは次々に起こってくる諸問題に自信を持って対処した人物ではなかった。妻であったサラもアブラハム同様高齢者であった。しかも彼らにはまだ跡取りとなる子供がなかった。アブラハムは止む無くエジプト人の下女ハガルとの間に子を儲けるが、神はサラとの間に生まれる子が跡取りとなると宣言し、御年百歳になってイサクが誕生したという。子供が生まれたことによりサラとハガルの間に激しい確執が起こり、遂にハガルとその子イシマエルを追い出すこととなる。サラの勝手な手法もゆるし難いが、神の約束は反故にされることはなかった。しかし神はその独り子イサクをモリヤの地に連れて行き燔祭の犠牲として捧げよと命じた。通常では理解しがたい事であるが、神はアブラハムの信仰の真偽を確かめるために敢えてそのように命じられた。信仰の世界における不条理は様々な場面に描かれているが、もし自分がその当事者になれば決して受け入れられないことであろう。親の身勝手で子を死に追いやってはならないのは当然である。しかし神はその本心を見てイサクに手をかけてはならないと宣言された。そして雄羊をもってその犠牲に変えられたという。この徹頭徹尾神に従う姿勢を神は歴史の鏡にされたのである。

 

 

 

 

【聖書】  創世記22章1-19節

 

 

◆アブラハム、イサクをささげる

 

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

 

 

 

 

   九月メッセージ (桜台教会『月報9月号』より)

 

 

 『恐れるな、語り続けよ。この町には、わたしの民が大勢いる。

 

    (使徒言行録 18章9-11節)

 

                

 

                                             牧師 中川  寛

 

 

  使徒言行録には初期キリスト教の伝道の様子が詳しく記録されている。二千年後の今日も伝道の様子は同じであることが解る。特に使徒パウロの伝道の勢いは日々困難の連続であった。紫布を商う婦人の熱意によりマケドニア州に渡りアテネで宣教し、コリントに渡った事情が記されている。彼はディアスポラ(離散のユダヤ人)のラビとしてアジアで活動していたが、メシアはイエス・キリストであることを知り使徒となった。伝道の足掛かりにしたのはユダヤ人の会堂であり、ユダヤ人への宣教が基礎となっていた。しかしモーセの律法に固執する多くのユダヤ人は彼の言葉を受け入れなかった。記録によれば『パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。』とある。敢えて言えば、ユダヤ教から鞍替えした裏切り者の説教は聞けないとの反感である。

 

  

 

  そんな中でも喜びの改宗者が出たことを報じる。『会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。』とある。伝道の報酬は喜びの成果である。困難の中にも神の働きを見る事が出来る。さらに言葉は『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』と続く。不思議なことだが、信仰者が困難に出会うと幻によって主の言葉が語られ、新しい力を受ける。物事は常に因果的に決定されているわけではない。神のヴィジョンが信仰者を導くのである。その基本は残された幾多の知恵であり、新しい構想力である。常に上を見上げ、周囲に目をやり、心をキリストに向ける時、新しい道が開かれる。パウロは励まされてコリントに一年六か月滞在して神の言葉を教えたとある。

 

 

 

  人は一人で偉業を達成するものではない。一人で形成された成果はどんな組織であっても、時と共にすぐに瓦解する。今はその現象が激しい。政治、経済において、国際関係において同様の現象が生じる。しかしそこに真実と正義が加わると新しい力を得る。人生においても事柄は同じである。より良い絆が結ばれるとその関係は長く生きる。信頼の交わりは必ず継続する。しかしエゴイズムがはびこり、嫉みが生じると組織は破壊される。心通わせる関係の保持には互いに褒め、激励し合うことが求められる。その為には心を開いて信頼できる人間関係の構築が求められるのである。使徒パウロを支えたのは「恐れるな、この町にはわたしの民が大勢いる。」との復活の主イエスの激励の言葉であった。それは今日の私たちにとっても同じことと言える。

 

 

 

【聖書】  使徒言行録 18章9-11節

 

ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」 パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。

 

 

 

 

 八月メッセージ(桜台教会『月報8月号』より)

 

 

 

   『互いに重荷を負い合いなさい。』   桜台教会 牧師 中川  寛   

                                   

 

長い梅雨がようやく空けて酷暑の夏を迎えた。日本のみならず世界中で乾燥と異常な暑さの為山火事が起き、通常クーラーを必要としない英国、フランスも涼と水を求めて民衆が右往左往している。日本の暑さも尋常のものではない。熱中症で倒れる方も大勢出ている。救急車の出動回数も相当なものだ。さらに国際関係がおかしくなっている。自国優先の政治経済もやりすぎは困るが、生活が成り立たないのでは致し方ない。このままでは生きて行くことそれ自身が四面楚歌である。また伏見の京アニ爆破火災にみるとおり、自己優先の価値意識で周囲の人々はどうでもよいとの異常変質者が社会を攪乱する。まったくもって悲しい事件が相次いで起きている。

 

 

    聖書はこの根本原理を人間の罪の問題と捉える。創造者なる神を否定し、有限な人間の本性を是とする。しかしアダムに起因する罪はやがては破滅と死を招く。「罪の終極は死である」と使徒パウロが語る通り神を持たざる人間の現実はすべて無に至る。戦争経験のない現代人は理性と科学理論に基づいて生を肯定するが、神なき人生において存在それ自体が悪魔化することを深く自覚しなければならない。戦争の負の遺産はそう簡単に消えるものではない。個々の人生においても生涯負い続けなければならない悲しみがある。国家間においては更に負の足枷が深く絡まる。しかし過去に振り回されるだけでは進展はない。人はある時奮起して過去を断ち切り、新しい道に踏み出さねばならない。その契機をもって初めて人生の生きがいを誇示することができる。

  

 

 使徒パウロは常に自己の限界を覚えつつ、それを克服する起点を持ち続けた。その起点がキリストによる愛と罪の赦しの福音であった。その福音とはこの世のものではない。十字架の贖罪を通して示されたキリストの愛と赦しの経験から来る新しい霊の力である。この力を得て前進し、成長する事が出来るのである。浅はかな信仰者は日常の務めが負担になればすぐ責任転嫁するか、自己の責任を放棄し逃亡する。それらはすべて偽善者の常とう手段である。キリスト者はそうであってはならない。信仰に留まり正義を貫徹することにより真の価値と勝利を獲得する事が出来るのである。

  

 

   パウロは勝手気ままなガラテヤの人々に「互いに重荷を負い合いなさい」と勧めた。ラグビーでは正しくスクラムを組むことが勝利を呼ぶ。重荷を負い合うとは他人の嫌がる事を率先垂範して責任を果たすことである。暗い時代ではあるが、重荷を担い合う中において栄光の勝利が見えてくる。今、時代は危機的状況にあるが、福音に命を懸けて生きる時、勝利の道が見えてくる。

 

 【聖書】  ガラテヤの信徒への手紙 6章1-5節

 

兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  七月メッセージ(桜台教会『月報7月号』より)

 

 

 

 『大混乱の中で神の知恵を知る人々』   桜台教会 牧師 中川  寛

 

 

 

六月末、大阪で開催されたG20宣言「強固な世界経済の成長の情勢」セッション中の貿易と投資項目において『我々は自由、公平、無差別で安定した環境を実現し、市場開放に努力する。』との言葉が明記された。経済の不公正が世界の不安を招くことは言を俟たないが、同時に文化、宗教の違いも大きな誤解を生む。

 

 

使徒言行録は激しい迫害の中で使徒たちが勇敢に、平然と福音を宣べ伝えていた様子を記す。反対者たちは嫉みによって彼らを投獄したが何者かによって解放され、神殿の境内でキリストの贖罪による新しい救いの事実を宣べ伝えていた。

 

 

 反対派はさらにキリストの名を掲げる人々を攻撃しようとしたが律法学者ガマリエルはある事件の例を取り上げ、議員たちに向かって『あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。』(5:38,39)と説得した。

 

 

世界は今もなお大混乱の中にある。米国は強大な軍事力を持ち、同時にその威力をもって世界を統治しようとしている。また大統領は戦争をしないと言うが、その真偽のほどはまだ不明である。私は馬鹿正直にそうであってほしいと信じているが、他者はどうであれ、崇高な倫理性を持つ聖書の福音に生きる者は『神を畏れ、正義と平和に生きる』道を糺さねばならない。ガマリエルが深い知恵を説く通り、その思いが人間から出たものならば自滅するだろうし、神から出たものならば神に逆らう者とされることとなる。

 

 

フランス革命が『自由・平等・博愛』をもって国家の基礎としたことは継承されなければならないが、聖書的理解なしにこれを標榜するならば、愚かな人間愛の自己肯定で終わってしまう。その背後にある福音的聖書的規範を理解することなく博愛を実行することはできない。米中、米朝、米イラク等の対立をどのように解消できるかは未だ闇の中であるが、聖書的原理に従えば福音賛美の中で新しい希望が見えてくるに違いない。

 

 

社会的諸問題に圧倒される品疎な日々の自分を悔い改めて、神と共に生きる大胆な生き方が求められる。それは贅沢な生き方をする事ではない。贖罪の主、キリストと共に自己に負けず、この世に負けない生き方を選び取る事である。聖書の神は従う者を欺くことはしない。見捨てることはしない。悔い改めをもって主と共に翻って生きる事が求められている。同時に日々の努力を怠ってはならない。キリストの眼が私たちに向けられている事を常に誇りに生きるのである。

 

 

 

【聖書】  

使徒言行録 5章17-42                                     

 

そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、 使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。 ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。 これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。 下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。

 

 5:23 「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」 この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。 そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。 そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。

 

 

 

 

   六月メッセージ (桜台教会『月報6月号』より)

 

   

 

   『新しい主の民の上に、霊の力が降り注がれる』

 

                    (ヨエル書 3章1節)

 

               

 

            桜台教会 牧師 中川  寛

 



 

   キリスト昇天後、約束の聖霊が降った。キリストの福音は人種、種族、文化、地域を越えて全世界に宣べ伝えられ、信じるものに自由と喜びをもたらしている。二千年前の出来事であるが、エルサレムの二階座敷に集まっていた人々の上に聖霊が降り、祝福された神の民の集団が誕生した。主にある希望に生き、信仰と希望と愛をもって貧しき人々の上に喜びに生きる神の祝福を示した。人々は教会と共にその福音による新しい人生の喜びと平安を知った。 

 



 

   今日その福音の源流に生きる人々が世界を変えつつある。米国のトランプ大統領を含むアメリカの新しい福音主義の人々を『反知性主義』と位置付けてその活動に注目している。ある日本の保守派評論家は「彼(トランプ大統領)は日本で言えば田中角栄、小泉純一郎のような存在だ」と言う。この『反知性主義』なる言葉はICUの森本あんり氏がトランプ旋風を紹介する書物で米国の歴史的思潮の一つとして使った言葉であるが、ようやくトランプ大統領の政策の根幹が認知されるようになった。米国東部のアイビーリーグと呼ばれる名門大学の多くは牧師養成の神学校として建てられた学校であることを認識し、紹介し始めた。日本人インテリの大半が米国政治のキリスト教的背景を単なる新興宗教勢力としてか理解できていないのは残念なことである。

 



 

   しかしだからと言って米国社会が格差社会から直ちに立ち直るわけではない。いまだに各地にホームレス村が多数存在する。失業率が回復されたと言っても一部の人々に留まっている。高齢化が進み、貧困化に歯止めがかからない。薬物依存と犯罪、家庭崩壊、教育困難世帯も存在し、中国政府への関税率25%問題での悪影響も出ている。サン・ノゼ、シリコンバレーにあるIT企業も税金の安い地域に移転していると言う。海外に移っていた企業も米国への引き戻しに躍起になっている。すべて20年の間に財政と知的財産が中国に吸収されたためである。日本も同様の事が起こっている。経済的危機は更に消費税アップの増税政策で弱者は金縛り状態である。 しかし私は米国の姿勢を支持したい。その背後にキリスト教共通の文化理念があり、福音的な新しい霊の存在を共に仰ぎつつ、信仰を持った人々による社会改革の取り組みがなされていることを見るからである。

 



 

  秋から日本でラグビーワールドカップが始まるが、文化・社会の形成には時間がかかるが、継続され続けなければ成果を見る事が出来ない。乳飲み子がミルクを慕うがごとく、霊的な福音の滴りを欠いては国家の本当の成熟はない。その意味でもジャパンRUGBYが日本文化形成の原動力になるとの認識がなされなければ、実(じつ)のある豊かで強固な日本文化が形成されることはない。

 

 

 

 

 

 

 5月メッセージ 『月報5月号』より

 

 『エマオから再びエルサレムへ―あの時心が再び燃えた-』                                                   (ルカ福音書 24章13~35節)

 

                                                                 牧師 中川  寛

 

 

 

 今年のイースターは4月21日(日)であった。春分の日の後の満月の次の日曜日は復活祭であると決められている。イースターの遅い年は春の到来も遅いと言われている通り、気象異常かと思われるほど寒い日も続いた。それに受難週の災難が世界中で起こった。ノートルダムの火災、高齢者運転による死傷事故、公共バスによる事故など予想外の事故が多く起こり、スリランカ爆発テロ事件も250名を超える死者を出した。世界全体が魑魅魍魎跳梁跋扈する不安な時代と化してしまった感がある。しかしそれでもキリストの復活を祝うイースターのお祝いには特別な意義がある。

 

 

 

 ゴルゴダの丘の上で成し遂げられた不条理なキリストの十字架による処刑は、息を引き取られたキリストの死をもって終わりではなかった。聖書に予告された通り、三日目に死人の中からよみがえられた不思議な出来事により、キリストを拒否し裏切った弟子たちの上に新しい世界が広がった。キリストと共に生活した婦人たちの告知により、遺体の納められた墓所は空であったことを確認した。そして復活の事実が弟子達にも伝えられることとなった。復活されたキリストは愛と赦しの言葉をもって弟子たちと再会され、彼らを新しい希望と喜びに生きるものとされた。彼らにはあの過去の裏切りと挫折の体験が空しいものとなったのではなく、新しい意味と価値をもって宣教活動の指針とし、教会形成の礎とされた。

 

 

 

 教会は主の復活の証人の群れとして新しい人間社会の目標となり基準となって福音を証しする群れとして成長する団体となった。復活されたキリストはまことの弟子たちに愛と赦しを与え、希望をもって生きる事を教えられる。ルカ福音書はキリストと行動を共にしつつ、処刑されたキリストの悲しみを心に留め、故郷に寂しく帰る二人の弟子に寄り添って、主が生きておられる事実を体験させ、再び彼らを立ち上がらせた事実を伝える。復活信仰を得て彼らは生かされる力を得ることができた。これらはすべて彼らの本当の体験から出たことばであったと思われるが、ルカはこのように記す。『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。』

 

 

 

 挫折と絶望を経験し、憔悴しきった心で故郷のエマオへ向かう彼らの思いを再び燃え立たせたキリストの言葉。共にパンとぶどう酒を頂き、かつてのキリストと生きる情熱を体得させてくれた復活の経験はエルサレムに結集した弟子たち一人一人の大きな再生への決断として確認されたのである。ここに私たちの生きる希望があるのである。

 

 

 

 

  4月メッセージ 『月報4月号』より

 

 

   『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか

    知らないのです。』

 

 

                 (ルカ福音書 23章34節)

 

 

       牧師 中川 寛

 

 

 

   イースターの遅い年はいつまでも寒いと言われる。今年は4月21日(日)なので通常より一か月遅い。しかしイースターは確実に春をもたらす。キリストの復活を喜ぶこの時期、世界は新しい希望にあふれるに違いない。混沌として世界情勢もこの福音を通じて安定に向かうと予測される。しかし政治と経済はますます混迷の度を深める。人間の深い罪から来る願望が善きものを否定し自我を優先させるのである。

 

 

 

   聖書は神の子イエスキリストの十字架の死の出来事を正確に伝えている。ゴルゴダの丘に建てられた3本の十字架がそれを表している。真ん中の一本はイエスキリストの十字架である。贖罪者キリストは罪なき身でありつつ、この世の罪の為に宥めの犠牲となられた。贖罪のキリストを通じて神の救いの真理が掲示される。世界が贖われるためには贖罪者キリストを知る以外に救いの道は開かれない。キリストの十字架にこそ愛と赦しの真理が告げられているのである。罪の赦しはキリストの贖罪を受け入れて初めてもたらされる。人類の英知を超えた罪の赦しの愛(アガペー)が照らしだされるのである。人の魂はこの愛に出会って新しくされる。それゆえにキリスト教は十字架の宗教と呼ばれる。ここに救いの根拠があるからである。

 

 

 

同じ十字架に就けられた犯罪人の一人はメシアキリストを見ながら「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と言った。するともう一人の人が「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」とたしなめたと言う。 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったところキリストは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

 

 

神による道理を知る者は自己の醜さと人間の限界を知り、神に至る救いの力に自らを預ける。そこに信仰者の生き方が生まれる。しかし苦しみからの解放を願う者は単なる欲得の生き方から脱する事が出来ない。魂の救済はこの世の道理を知らされて手にすることができるものである。議員や民衆も興味本位にゴルゴダの丘の上に立てられた十字架を見てあざけり、「神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と言ったと記す。兵士たちも「「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」侮辱したと言う。

 

 

 

   人はこの時今一度何が真理で人を生かす福音かを見極めねばならない。しかしその原理はやはり聖書に基づいている事を見のがしてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三月メッセージ  『月報3月号』より

 

 

       『岩の上に家を建てる』

 

                 (ルカ福音書 6章46-49節)

 

 

                      牧師 中川  寛

 

 

 

主イエスは弟子たちを前に多くのたとえで福音を聞いた人々に生き方を教えられた。それは『岩の上に家を建てた人』に似ていると言う。ルカ福音書と共にマタイも同様に記しているが、これは大事なことである。人生は春の嵐に譬えられるが、様々な危機に対処する方策は人それぞれである。誰もが同じように人生の荒波に遭遇するが、すべての人が荒波に飲み込まれる訳ではない。

 

  様々な艱難辛苦を経験しても、無事その荒波を克服し勝利をつかんだ人もおれば、危機を回避して平安無事に生きた人もいる。人生の目標は皆が充実した平安の日々を送る事でなければならない。

 

 

 

  主イエスは身をもってその生き方を教えられた方である。特に若い時から正しい教えに学び、良いものを目指して努力することが求められる。そうすれば人生は各人平等に与えられた機会を生きる事が出来る。特に親たるものは家庭において子供たちの良い手本にならなければならない。人生の基礎工事はまず家庭教育にある。親たるものが何を目指して生きているかが子供の大きな感化力となる。それは日々の積み重ねであって、やがて子供が成人となる時、その努力が結実するのである。信仰は困った時の神頼みではない。

 

 

 

 「家を建てる」とはオイコドメオという言葉から来ている。それが英語ではエコノミーとなり、世界教会主義を表すエキュメニカルの元となっている。経済の語源もまた家を建てることから始まる。家を建てること、それは家族を育成する事であり、血族を永続させることでもある。封建時代の家族主義ではない。武士道の精神でもない。聖書が教える人生を貫徹する人間の各人の目標なのである。それゆえ主イエスは『 わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。』と語られる。今、家が壊れている。家庭が崩壊している。社会が混乱している。世界が不法社会となっている。これらを立て直すのがキリスト者である。それは又キリストの命令でもある。

 

 

 

 春の嵐に身を潜めていては前進できない。成長できない。発展しない。キリストの共同体は今一度キリストと共に「家を建てる」努力をしなければならない。それは信仰の始め初心に立返る事である。

 

 

 

 

 

 

二月メッセージ

 

 

       『神を知るとは』  (ルカ福音書 6章43-45節)

 

                                牧師 中川 寛

 

 

 

人はそれぞれに神の居場所を求めている。その居場所を突き留めても神が神として人に語りかけてくれるとは限らない。多くの人はそれ故に神を信じない。否、神にあらざるものを神とし一時を満足して過ごすことになる。聖書は「神は創造者であり全能者である」と語る。実は人間は被造物であるに過ぎないものだが、不完全であるがゆえにより完全なものを求めようとするのである。

 

 

 

 

    神は人の心を照らされる存在である。その心には善悪の判断基準が明確に示される。福音書はわかりやすくこう語る。『悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(ルカ6:43-49) すなわち口から出る言葉は良い心を持っている時には良い言葉が放たれ、悪い心を持っている時には悪い言葉が放たれる。それによって人が喜ぶ時もあれば言葉によって苦しみ、関係を破壊する。常に良い言葉を放つよう努力したいものであるが、本質的に自己中心である我々は損得勘定を優先する。これが罪なのである。人間が存在するところには常に付きまとう悲しい性(サガ)というべきものである。醜いサガを脱するためにも正しい神を求めなければならない。

 

 

 

 

普遍妥当性を持ち、永久不変の神を獲得するにはどうすべきか。私は神の言葉である聖書を知る事が第一であると確信する。同時に神の言葉である聖書を生み出した教会の本質を学ぶこと、そしてその集大成であり要約である『信仰告白と使徒信条』を知る事に尽きる。教会の伝統には制度としての「教皇制(教職制)」が存在するが、制度的教会は時間と共に変質し、時代と共に堕落する。しかし『信仰告白』は言葉として常に新しい神の恵みをもたらす。さらに伝統としての聖礼典がその意義を増し加える。それらはすべて単なる形式ではない。言葉と共に実態を明らかにする。これを体得することが良い実をもたらす信仰者として時代に光を灯す事が出来る。

 

 

 

 

 現代社会は頼るべき希望の根拠を欠いている。偽善がはびこり、虚偽が世を支配している。人は負けじと悪に走る。結果的には希望の光である幼子さえ犠牲にしてしまう。どこで誰がどの様にしてこの悪しき弊害を打ち破るのか。キリスト者はまず信仰に目覚めて神と共に立上がらねばならない。お金のあるところに人は集まるが、真実な言葉のあるところに栄光と繁栄がもたらされるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 2019年 一月メッセージ(桜台教会『月報1月号』より)

        『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』

                (ルカ福音書 2章21-22節)

                            牧師 中川  寛

   ルカ福音書はイエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時、『天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で降って来た。』と記す。そして『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえたと言う。「聖霊が鳩のように目に見える姿で降って来た」とは誰にでも体験できることだろうか。目には見えないが大きな神の働き掛けがイエスの上に起こったと明言する。キリスト者は祈りの中で聖霊の働きを体験する。熱狂的な異常現象が生ずるのだろうか。そうではない。大いなる善性に触れた時、人には人格的な変化が起こる。真剣に祈る人の感化力が及ぶ。聖霊の働きは人格的な感化力を産む。

 

 

 

人間の感化力は一時的な興奮を生じさせるが、聖なる感化力は生涯に亘ってその人格を聖化する。神が御子イエス・キリストに語りかけられた時、キリストご自身が聖霊によって聖化され、言葉が力を発揮して神の子としての歩みをなさせたのである。私たちも聖霊に導かれた時、祈りは奇跡を産む。通常では信じられない結末をもたらす。神は一人一人の心に語りかけられて、神の業を行う者へと導かれるのである。ナザレのイエスをメシア・キリストであると告白させる力は信仰に基づいてその祈りを実現される。それは神への信頼がもたらす祝福の成果である。祝福の証しである。信仰はキリストにおいて生きた神の恵みをもたらすものとなる。

 

   『信仰・希望・愛』の三位一体は聖なる結びつきをもって相互に私たちを正しい道に導く救いの原理である。キリストへの誠実な信仰が私たちの神関係を糺し、日常生活を神信仰へと導くものとなる。希望に生きる事は将来の可能性を望み見て生きる事ではない。生涯に亘って神への希望を持つことが真の自己実現を可能にする。そうでなければ希望は失望に至り試練によって挫折に至る。愛とはキリストの十字架の愛が根拠となる。贖罪愛が人を正しく導く力となる。これを導く原動力は祈りとみ言葉の習熟度によるのである。

 

 

 

   洗礼を受けてから教会から、又信仰から離れる人が多い。残念なことだが、「自由」についてのはき違いが信仰者を混乱へと導くこととなる。信仰者は信仰の原点に立ち返らなければならない。そして信仰の根拠を自明のものとしなければならない。世の論者によれば2019年から世界は大きな迷路に入り込み、更なる混乱と政治的社会的危機を産むと言う。多くの偽善的言舌が世を攪乱し、世界を混乱へと向かわせる。人心の荒廃は深化し、貧富の格差が増大する。人々は何をもって自己の崩壊を食い止める事が出来るか。信頼の回復は何をもって再建するか。その解決の道は聖書と教会の教理の学びの中に明示されているのである。