Welocome to Skuradai Church !

 

  十月メッセージ

 

 

       『七転八起の教え』

 

 

                 (箴言 24章13-22節)

 

   

 

 

 

  急転直下、安倍首相が発した衆議院解散により野党

 

の混乱が哀れに見えた。様々な危機が日常を覆う動乱

 

の時代、安定を過信していた国民も愈々自国の現状を

 

深く考え、将来如何にあるべきかを内省せざるを得なく

 

なった。日常の経済問題は言うに及ばず、近隣諸国との

 

関係悪化と北朝鮮のミサイル問題には仮想現実ではなく

 

、国民の明確な意思表明が求められている。

 

 

 

  

 

  旧約箴言は知恵の書としてユダヤ人のみならず、欧

 

米のクリスチャン家庭においてよく学ばれている。人は早

 

い時期にこの知恵を学び取る必要がある。それは動揺の

 

時代に強く生きる指針となる。 『わが子よ、蜜を食べて

 

みよ、それは美味だ。滴る蜜は口に甘い。そのように、魂

 

にとって知恵は美味だと知れ。それを見いだすなら、確

 

かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。』

 

 

 

 

 

  豊かな知恵を身に着けることは人生を強く生きる力と

 

なる。『七転八起』の言葉は三千年の昔から箴言で教え

 

ている言葉である。広岡浅子の「九転十起」の言葉は自

 

作の言葉であるが、彼女もキリスト者としての力を聖書か

 

ら得ていた。箴言は語る。 『神に従う人は七度倒れても

 

起き上がる。神に逆らう者は災難に遭えばつまずく。敵が

 

倒れても喜んではならない。彼がつまずいても心を躍ら

 

せるな。主がそういうあなたを見て不快とされるなら/彼

 

への怒りを翻されるであろう。悪事を働く者に怒りを覚え

 

たり/主に逆らう者のことに心を燃やすことはない。悪者

 

には未来はない。主に逆らう者の灯は消える。わが子よ、

 

主を、そして王を、畏れよ。変化を求める者らと関係を持

 

つな。突然、彼らの不幸は始まる。この両者が下す災難

 

を誰が知りえよう。』(箴言24:13-22) 達磨を語る仏教よ

 

り古く聖書は深い人生の知恵かたる。

 

 

 

   毛利の教えとされる「三本の矢」の教えも実は旧約

 

のコヘレト書にある。 『ひとりよりもふたりが良い。共に労

 

れば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友

 

を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不

 

幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが/ひとりでどうして

 

暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対

 

する。三つよりの糸は切れにくい。』(4:9-12)  

 

 

 

 

   さらに龍安寺の蹲(つくばい・手水鉢)に刻まれた

 

『吾唯足知』の言葉は『信心は、満ち足りることを知る者

 

には、大きな利得の道です。 なぜならば、わたしたち

 

は、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って

 

行くことができないからです。』 と使徒パウロは二千年前

 

に弟子のテモテに教えている。聖書を学ぶとは実に魂の

 

力を獲得する事なのである。

 

 九月メッセージ

 

 

  『聖書の教えに学ぶ時が来た-上に立つ人の心得』

 

              (テモテの手紙一 3章1-13節)

 

 

 

   9月1日を前にメディアが中高生の自殺予防を盛んに

 

呼びかけていたのには驚きであった。夏休み明けの始業日

 

は特に自殺者が増える日だと言う。学校でイジメを受けて

 

いた生徒がさらに苦しむ日だと言うのはとても悲しい。

 

 

 

  社会の均一化が多くの弊害を生む。しかし人間が勝手に

 

作り出した判断であるがゆえに、その基準に当てはめる

 

ことは間違っている。もっと大きな価値基準に生きる事が

 

人間を大きく育てるのである。教育は今日特にその本来

 

の目的を逸脱していると言わねばならない。

 

 

 

 

 使徒パウロは弟子のテモテに神の教会を治めるために

 

必要なことを説いている。クリスチャンはその教えを良く

 

学び信仰生活の規範として身に着ける。教会において

 

は「監督職」(エピスコポス)を求める人は『非のうちどころが

 

なく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀

 

正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなけ

 

ればなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、

 

争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、

 

常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人で

 

なければなりません。自分の家庭を治めることを知らない

 

者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか』と書い

 

ている。誰が見ても品位ある人、信頼できる人でなければ

 

ならないと言うことである。特に信仰の指導をする牧師、

 

長老、執事、役員は肝に銘じておくべきでしょう。

 

 

 

 かつてクリスチャンは禁酒禁煙であると言われたが、

 

パウロはお酒におぼれないことと教えている。個人の嗜好

 

に関して他人の目を憚ることなく、自由奔放に振る舞うこ

 

とは時にその人の品位が疑われることとなる。また信仰者

 

は社会的責任を果たす者でなければ信用されない。更に

 

厳しく家庭を治めることも求められている。今日敢えて教会

 

では逐一個人の評価はしないが、それらは人は日常を見て

 

十分判断できるものである。もし大いなる価値基準がある

 

ならば、自己の良心に照らして健全な生き方ができると言

 

える。しかし不幸なことであるが、戦後の自由と民主的教育

 

においてはその大切な価値基準が教えられなくなってしまった。

 

 

 

  国家、社会の退廃は個人の倫理的価値基準があいまいに

 

なった時大きくなる。今や世界的な流れでその不幸な現象が

 

起きているのである。誰がそれを糺すのか。それは教会の

 

使命である。キリストの福音を知り、聖書の教えを学ぶ者が

 

まず目覚めなければならない。否悔い改めなければ世は救

 

われないのである。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

八月メッセージ

 

      『広く、強く、大きく、深い信仰を持て』

                                 (エフェソ書6章10-20節)

 

                             

 

                         牧師 中川  寛

 

 

   使徒パウロはエフェソ書の末尾に『主に依り頼み、その偉大な

 

力によって強くなりなさい。』(エフェソ610)と教える。それは巨大な

 

悪の力との戦いである。人間の幸、不幸の背後には悪の力が

 

働いている。その悪の力が喜怒哀楽を生み苦悩と絶望をもたらす。

 

私達が経験する幸福は長続きしない。生き続ける限り悪魔の

 

策略に勝ち続けなければならない。そのための対策は『神の

 

武具を身にまとう』ことであると言う。神の武具とは何か。パウロ

 

は続けて『立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てと

 

して着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお

 

その上に、信仰を盾として取りなさい。』(6:14-17)と説く。

 

キリスト者の素晴らしい戦いの対策である。真理を知り、

 

正義を身に着け、平和の福音を履物とし、信仰を盾として

 

生きる。これがキリスト者の生き方である。

 

 

 

 大手メディアの虚偽報道と無責任な官僚・為政者の言動

 

により、多くの人々が益々窮地に陥れられ、本来的に危機状況

 

にある可及の事象が放置されている。弱者貧困者への対策が

 

遅れている。難民流入の少ない日本ではあるが、サタンの脅威

 

に晒され、生活の困難を覚える人々が全国に蔓延している現状

 

である。これは世界的現象として真実が見えない事態と言える。

 

そして更なる混乱が予測される。

 

 政治・経済の動向は直ちに金融・株価に反映され報道を通じ

 

て事態の推移が知らされる。しかしそのニュースソースはどこ

 

から出ているかを知らなければならない。米国大統領選に

 

見た如く、日本のメディア・地上波TVはどこも予測が外れた。

 

米国の知人はいち早く「CNN」より「BBC」の方が良いと教えて

 

くれた。NHKはもとより朝日、読売、毎日新聞他、ニュースの

 

真相を深く掘り下げて解説するには至っていない。米大統領

 

が自ら「SNS」を通じて直接世界に語りかけるのは当然のこと

 

と言える。偽情報であっても各メディア・放送局にとって、一番

 

の狙いは視聴率であり購読料だと言う。すべてがすべてお金

 

中心であって、全く世界の人々を惑わせている。

 

 

 

 米国議会委員会開会時と閉会には必ず祈りがなされる。

 

土曜日は大統領・閣僚集ってバイブルクラスを開いている

 

事を知った。彼らは『神が我々の側におられるかと言うこと

 

ではない。我々が神の側にいるかどうかということである』と

 

語ったリンカーンの言葉を実践しているである。今、米国は

 

聖書による建国の理念に立返って再建の苦闘を展開している。

 

 

 

 

 

七月メッセージ

 

   『神のヴィジョンに生きる』

 

    (マタイ福音書22章34-40節)

 

 

 

 聖書の基本的な教えは何か。初めて聖書に触れる多くの

 

方々には膨大な頁数を見てどこから読み始めればよいのか

 

戸惑うに違いない。キリスト者にとっても十分に聖書を読

 

み切れているとは言い難い。聖書は今年宗教改革500年を迎

 

えて改めて自由に読める神の言葉として学びなおさねばな

 

 

らない。宗教改革者ルターの働きは今もなお偉大である。

 

 

 

 

 幕末の志士たちも聖書に触れて維新の事業に生きた。

 

勝海舟は主イエスを信じ、西郷隆盛は『敬天愛人』の言葉

 

をもって聖書を愛読したと言われる。彼は横浜海岸教会で

 

洗礼を受けたそうだ。不思議な導きであるが戊辰戦争に際し

 

勝海舟率いる咸臨丸襲撃戦で死亡した佐幕派の兵士たちの

 

遺体埋葬に協力をした清水次郎長一家の門弟の中から、侠客

 

常世川(西村由之助)は滋賀県大津市堅田教会で洗礼を受け、

 

その息子は西村関一牧師でキリスト教代議士として浜松の

 

長谷川保氏や社会党委員長川上丈太郎と共に大活躍された。

 

メレル・ヴォーリズの建てた近江兄弟社と共に近江で伝道

 

と教育に従事される。赤坂の勝海舟の邸宅跡は今は教団の

 

赤坂教会となっている。

 

 

 

 聖書には私達の心の目を開く大きな力が宿っている。

 

それはイエスキ・リストによる贖罪愛の事実に触れるから

 

である。人間のすべての罪を赦す福音が目の前に示される。

 

『敬天愛人』の教えは黄金律と言われる聖書の言葉に基づ

 

いている。『イエスは言われた。「心を尽くし、精神を尽

 

くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」

 

これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じ

 

ように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」

 

 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』

 

 創造者なる神の命令がこの二つに凝縮されている。神を

 

神として愛さない者は必ず行き詰まる。隣人を自分自身の

 

ように愛さない者は本当の友人を得ることはできない。

 

神の掟は必ず人を建て、私たちを真理と正義の道に導く。

 

 

 

 聖書に触れた者は躊躇することなく神の道を歩む為に

 

洗礼を受けることが大事である。その生涯において神の

 

力を得、神の知恵に導かれ、試練にあっても希望をもって

 

人生を生き抜くことができる。神のヴィジョンを知る時、

 

人は人生を力強く生きる事が出来るのである。いかなる

 

試練にも負ける事なく祝福される。これが聖書の約束で

 

ある。福音は自分で見つけることはできない。人は信仰に

 

よって育成されるのである。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

六月メッセージ

 

      『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』

 

              (ヨハネ福音書1章29-34節)

 

 

 

 ヨハネ福音書はバプテスマのヨハネがイエスに出会って

 

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と語ったと記す。

 

ヨハネは自らイエスに対して「わたしはその履物のひもを

 

解く資格もない」と話したと言う。彼は預言者としてイス

 

ラエルの改革を願い、ヨルダン川で大勢の民衆に悔い改め

 

の洗礼を授けていた。しかしイエスの存在を知って神の時

 

の到来を知った。

 

 

 

 危機に瀕したユダヤ社会ではあったが、聖書には神の国

 

待望の信仰が生きていたことがわかる。福音書はメシアの

 

到来と共に神の正義が行われることを教える。ヨハネ自身

 

『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人

 

が聖霊によって洗礼を授ける人である。』と言う。イエス

 

の働きは人の力によるものではなく、聖霊の業であると教

 

えている。

 

 

 

 現代世界は人間の知力を誇り、見える事柄が絶対的成果

 

であると過信する。その結果活力ある者、富める者のみが

 

成功者であって貧しき者、弱い者には目もむけない。今や

 

世界的にグローバリスムが音を立てて瓦解し、更に大きな

 

危機が迫っていることを私たちは知っているではないか。

 

不正義と貧困の危機が戦争を呼び、社会的不安と混乱を生

 

み出している。

 

 

 

 先日BBCが報じた米国の危機は驚くべきものである。

 

ロサンゼルス市は今や「ホームレスの首都」と呼ばれ、

 

今年1月市の報告では37,794人で昨年の二割増しと言う。

 

市の仮設ハウス建設予定は1万ユニットで12億ドルの予算

 

を計上されたとの事、低所得者の七割がハウスに入る。

 

これは焼け石に水で今後10年間に35億ドルを超える予算で、

 

さらに55万ユニットの準備が求められていると言う。

 

これはロサンゼルス市だけの報告であるが、全米において

 

は想像もつかない危機である。このニュースを読んで初め

 

て米国大統領の狂気ともいえる新政策が出されている事を

 

知ったのである。今後どのように実行されるのか祈りを

 

もって見守りたいと思う。

 

 

 

 社会的現実と信仰がどのように関係するか。実はこの

 

現実に負けない信仰的、霊的力が指導者たちに求められ

 

ているのである。Spiritual Powerは聖書的福音によ

 

って提供される。米国は聖霊の力によって新しい変革

 

が成し遂げられるであろう。リーマンショックは「百年

 

に一度の世界的危機」であると言われたが、実は決して

 

過去の事他人事ではなく、日本も早晩その暗い波を被る

 

ことになるかも知れない。今こそどんな波が来ようとも

 

動じない信仰が求めらている。

 

 

 

 

 

 

五月メッセージ

 

 

 

この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した

 

      

      (ルカ福音書4章20-21節)

 

 

 

 

 

 先日米国トランプ大統領就任100日に当たり、あるネット

 

討論番組で、若い女性の国際政治学者が自ら体験

 

したこととして次のように告白した。ノースカロライナ州

 

に住む中流白人クリスチャンの日常生活の背景にあるもの

 

と日本人の心のコアな部分を比較したとき、決定的に違う

 

ものがあると。彼女はクリスチャンではないが、日本人の

 

心のコアな部分にはカオスが漂っていて、キリスト教文化

 

の中で育った欧米人とはその根底において決定的に人間が

 

違うと話した。ある人はそれを宗教だと言うが、差別と

 

偏見、社会不況の中において、彼らは日本人の宗教には

 

ない人間力を持っていると言う。更にその力によって

 

米国は変わりつつあるとまで言っていた。

 

 

 

 

 遅いイースターの所為かようやく緑の季節を迎えたが、

 

東アジアの軍事的危機を前に、平和ボケした日本人の

 

日常生活に新しい成長発展の新芽を発芽させる活力が

 

求められている。それはどのようにして形成されるのか。

 

より良いものはすべて聖書から出て影響を受ける。

 

日本の政治家がよく口にする「もう神学論争は止め

 

よう」とのキリスト教を蔑視する文言こそ実は国家

 

社会の根幹をなす教会の形成を促す有力なパワーなので

 

ある。その根底には福音がある。創造論が位置づけられ、

 

固有の価値をもってこの世に生を受けた人間の尊厳と使命

 

が述べられる。

 

 

 

 

聖書には一人一人の人間を照らす超越の光が啓示され

 

ている。人を生かし、また殺すことのできる神の言葉が

 

述べられている。その言葉は人を甦らせ、人間としての

 

自律と文化の発展を促す力(デュナミス)を持っている。

 

キリストの言葉には文化を改造し、人間を再生する力が

 

ある。その躍動する力を最初に発揮する場がキリストの

 

教会である。

 

 

 

 

 

 ブリューゲルの描いた『バベルの塔』に見るまでも

 

なく、人間は豊かな物質に生きていることが幸せなの

 

ではない。その本質において、人は何のために生きて

 

いるのかを知らない限り、人生の生きる意味を獲得した

 

ことにはならない。特に利害の反する社会環境において、

 

人は隣人の為に犠牲を払ってまで奉仕活動はしない。

 

理不尽な目的においても同意、協力することはないと

 

言える。しかし救済の手が差し伸べられなければなら

 

ない事態は私たちの周辺に満ち満ちている。

 

 

 

 

キリスト者は自己犠牲を厭わない愛の奉仕を神の要求

 

として自覚している。キリストが語った言葉や行為に共感

 

した人々は驚きをもってその事実を受けいれ、よりよい

 

生活環境を形成するために隣人愛を実行する。心ある

 

米国人の魂が聖書によって啓発されることが社会変革の

 

優先事項であると思われる。ちなみにCNNは5月10日

 

に牧師のフランクリン・グラハム師を招いて国会祈祷会が

 

開催されると報道していた。また日本の国際政治学者は

 

四年後の米国はトランプ大統領を支持する人々によって

 

大きく変わるだろうと予測していた。私もまた期待したい。

 

 

 

 

 

 

四月メッセージ

 

 

 

   『神の知恵に生きる』 (  Ⅰコリント書2章6-16節)

 

 

 

 今年のイースターは4月16日である。春はイースターと共に

 

来ると言われ、イースターが遅い年は寒さが長引くと言われる。

 

桜が咲いても雪が降ることもある。また、イースター前の一週間を

 

受難週と呼ぶ。キリストが十字架に架けられた聖金曜日は

 

何故かGood Fridayと呼ばれるのも意味深長である。

 

願わくば平穏な一週間であることを願いたい。

 

 

 

 使徒パウロは『十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては

 

愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。』

 

(1:18)と言う。キリスト者はキリストの十字架を通じて新しく

 

神の愛と赦しの物語を学ぶ。罪に生きる不完全な

 

人間の姿に、キリストが新しい命と赦しの愛を吹き込む。

 

罪に苦しむすべての人々に対して、十字架上のキリストが

 

赦しと愛のとりなしをして下さるのである。この事実はキリスト

 

への信頼によって体得される。身勝手な醜い自己がキリストの

 

純粋な犠牲の愛によって再生される。

 

 

 

 

 信仰によって得られるこの体験を使徒パウロは『自然の人は

 

神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、

 

それは愚かなことであり、理解できないのです。』と断言する。

 

それは『霊によって初めて判断できるからです。』と続く。

 

 

 

 

 キリストへの信仰は単なる信心ではない。自己を再生させる

 

神の力であり神の知恵である。

 

『しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を

 

語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅び

 

ゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語る

 

のは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が

 

わたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定め

 

ておられたものです。』(2:67)と誇る。神の視点から世界を

 

見る見方を霊的視点と呼ぶ。聖書を通して物事を判断する

 

信仰的視点は人間的主観に立つ事ではない。自己を神に

 

照らして相対化し客観化することである。それゆえキリスト教

 

信仰と宗教的信心とは必然的に異なるものとなる。神の知恵

 

は自己絶対化ではなく、神絶対化であり自己相対化となる。

 

そこでは信仰の道理が優先する。

 

 

 

 一月から始まった米国大統領の新体制は世俗主義が

優先すると言われる。しかし彼らは信徒であって

キリスト教徒ではあっても神学者ではない。聖書に従って

神の知恵による国造りを政策に掲げる人々である。

私はその中に福音主義キリスト者が多くいることに期待している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三月メッセージ

 

     『エレミヤよ、何が見えるか』

 

                                  (エレミヤ書1章11-13節)

 

 

 

  BC6世紀、南王国ユダの滅亡を預言し、選民イスラエルの

 

終わりを宣言した旧約の預言者エレミヤは、その召命の体験

 

として神からの呼びかけの中に、『エレミヤよ、何が見えるか』

 

との問いを受けた。彼は早春の野にアーモンドの花がピンク色

 

に咲き誇る美しい光景を見た。彼は直ちに『アーモンド

 

(シャーケード)の枝が見えます。』と答えた。すると主は

 

『あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げ

 

ようと見張っている(ショーケード)。』と言われたと言う。更に

 

聖書は主の言葉が続き『何が見えるか。』と問われ、彼は

 

『煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへと傾いています。』

 

と答えたと記す。やがて北の大国バビロニア帝国の征服により

 

エルサレムが陥落し、南王国ユダの民衆は王と共に捕囚として

 

バビロンへ連行されることとなる。エレミヤも自国の敗北を予告

 

したため殉教の死を遂げたと言われている。

 

 

 

 

 イスラエル民族はこの捕囚の体験を民族の恥辱として

 

心に秘めてきた。預言者エレミヤは廃墟の中で新しい希望

 

を捕囚の民の中から新しいイスラエルの『残りの民』が出現

 

することを預言した。事実旧約時代を経て後にイエス・キリスト

 

の出現により、新しい神の契約の民としてキリスト教会が誕生

 

することとなった。

 

 

 

 私は3月になると常に思い起こす情景がある。

 

カリフォルニア州北部をドライヴする中で梅、桜に勝る

 

アーモンドの花が満開に咲き誇っている美しい情景を

 

目撃した。また二度に亘るイスラエル旅行の際、

 

ガリラヤ湖の辺に咲いていた満開のアーモンドの花で

 

あった。その度にエレミヤの体験を思い出した。美しく咲き

 

誇るピンクの情景を通して神は私たちに常に問いかけて

 

おられるのである。あなたには何が見えるか、と。世界は

 

大きく変わろうとしている。良い志しをもって努力する国

 

には良い結果が得られる。しかし武力をもって権力を

 

誇示する国はやがて亡びる。美しい自然(地球)の活動

 

に何を見るかが問われている。人々が正義と善意の内に

 

希望をもって喜びを共有する事が出来る環境が形成され

 

なければならない。戦争と殺戮、破壊をもたらす世界を

 

見る事はもう止めたい。悪の支配する世界で苦しみを

 

倍加させる方策は断じて許されない。春の到来はサタン

 

の制圧によって成遂げられる。神が見張っておられるとの

 

視点を持たずして正義は実行されない。

 

 

 

 

 

 

 

 

二月メッセージ

 

    『キリストにおいて満たされる』

 

           (コロサイ書2章10節)

 

 

 

 

  信仰生活はキリストの働きと恵みに従って生きるとき

 

大きな力を発揮する。高齢化と共に日常生活が思うに

 

まかせず困難を覚え、人生の終わりを感じて消極的に

 

なるとき、キリストに在る恵みはその真価を発揮する。

 

それは私たちが日々経験する人生の知恵を超えて新しい

 

世界を提供する。神共にいまし、復活の信仰に生きる

 

とき新しいキリストの聖霊の風が吹いてくる。

 

勝利者キリストは預言者イザヤが語った通りに信仰者

 

の魂に感動の息吹を注入される。イザヤの約束は次の

 

通り。『主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。

 

まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて

 

主を待ち望む人は。もはや泣くことはない。主はあなた

 

の呼ぶ声に答えて/必ず恵みを与えられる。主がそれを

 

聞いて、直ちに答えてくださる。』(30:1819)

 

 

 

 それにしても洗礼を受けてキリストと共に生きる

 

決意をしたクリスチャンが、希望通りの人生を生きる

 

事が出来なくなったと早合点して、教会生活を中断

 

してしまうのはなんとも哀れなことかと残念に思う。

 

信仰は試練の時にこそ、その力を発揮する。自分が

 

だめでもキリストが働いてくださる。聖霊が道を示

 

される。それ故にキリスト者は聖書をよく読み、

 

祈りを欠かさず、さらに力を得るために信仰者の

 

交わりを大事にする。

 

 

 

 先日西武地区教会連合一致の礼拝が行われ、

 

他教派の方々との交わりを厚くした。特に感謝で

 

あったのは何れの教会でも高齢化が進む中、

 

年配の方々がいよいよ輝かしく交わり、奉仕されて

 

いる姿を拝見した。教職者の入れ替わりも時代の

 

流れとは思うが、信徒の方々の熱い信仰の証しには

 

いつも教えられるところが大きい。使徒パウロが

 

コリントの町で経験した『恐れるな、語り続けよ。

 

この町にはわたしの民が大勢いるからだ。』(使18:10

 

との言葉通り、世界には信仰者の働き大きな光として

 

輝いている。

 

 

 

 キリストの十字架は神の勝利の証しである。

 

福音は常にみ言葉をもって私達に語られている。

 

キリストの福音に神の大きな祝福の恵みが隠され

 

ている。信仰を捨ててはならない。祈りを欠かしては

 

ならない。教会生活を疎かにしてはならない。

 

厳しい日常生活に新しい陽光が照らされる。

 

神のご計画は破壊と破局の中にも隠されている。

 

それらは悲しみの中で示される。                                            

 

 

 

 

 

 

 

 

    一月メッセージ

 

 

    『古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、

                      新しい人を身に着け、真の知識に達する』

 

 

                             (コロサイ書3章9、10節)

 

 

 

 

 『謹賀新年、栄光在主』は毎年頂くキリスト者の年賀状の

 

簡潔明瞭な文言である、が信仰は常に豊かな感性に裏打

 

ちされて一年毎の成長を感じさせる。丁酉(ひのととり)年は

 

果実が熟成、醸成し酒に生ることから付けられた酉(トリ)年

 

と言う訳だが、名称が鶏と呼ばれてから闘鶏が連想され、

 

荒れる年とも言われる。物事が好転すれば有り難いが、

 

何となく波乱万丈の世界を予測させる。

 

 

 

 

 聖書は世の現状を良くは見ていない。パウロは諸霊

 

(ストイケイア)に支配されたコロサイの教会にキリストの真実を

 

伝える。人は誰もその時代精神に支配されて生きている。

 

しかしパウロはキリストの霊と共に生きる者は高い英知を身に

 

着けると語る。かつて文語訳では諸霊を「小学」と訳した。

 

パウロが論破した異端はグノーシス(知識偏重)主義であったが、

 

それは福音的様相をもってキリスト者に近寄り、ついには自己

 

破滅に至らせるサタンの信仰であった。キリストの十字架を

 

否定し、復活の事実を告白しない信仰は世俗主義に足元を

 

すくわれる。聖書が語る福音は、キリストの自己犠牲による

 

魂の救済、すなわち悔い改めによる罪の赦し十字架から復活

 

に至る新生の歓喜である。

 

 

 

 

 

 世界は科学的技術発展の恩恵を受け、あらゆる分野で

 

人工知能AIの働きを見る。我々は各分野への期待を膨らま

 

せるが、魂の未成熟ゆえに世界の混乱が助長される。

 

グノーシスの誘惑は魅力的ではあるが、その結末は文明の

 

崩壊と人間性の消滅である。それは罪人の自覚のなさに

 

より悪徳の支配するところとなる。そしてさらに闇が世を覆う。

 

新しくなるには十字架を見上げ、死に至る自己から悔い改め

 

を経なければならない。キリストの福音が前途を開く。

 

 

 

 

  2017年はルター宗教改革500年祭である。聖書による

 

福音の発見によりドイツ、スイス、オランダ、イギリスが大きく

 

変わり、やがてフランスもイタリヤもスペインも近代化を経験

 

する。その先端を歩んだのはアメリカであったが、政権交代

 

と共に再び福音への回帰と信仰への復権が深められる時と

 

なる。もはや歴史は後戻りできない。新しい人を身に着け、

 

真の知識をもって、破滅ではなく新生と再創造の喜びを

 

共感する時代となる。しかしなお暫くは悪しきストイケイア

 

が人々の生活を支配する事であろう。教会は福音によって

 

固く立つ事を覚えたい。

 

 

 

 

 

11月メッセージ

 

       

 

 『 光の中へ 』 (Ⅰペトロ書2章9節)

 

 

 

 かつて詩編の作者はこのように歌った。『いかに幸いなことか。

 

主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。 主は天から

 

見渡し人の子らをひとりひとり御覧になり 御座を置かれた所

 

から地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて

 

造られた主は彼らの業をことごとく見分けられる。』(詩33:12-15

 

 それは童話作家アンデルセンの「絵のない絵本」に表現され

 

ている。各地を旅した彼は月の光に照らされた貧しい庶民の

 

夜の間のひと時を済んだ目をもって美しく描写した。貧しく

 

とも幼い時から聖書に聞き、母の信仰に育てられて苦難を

 

乗り切った信仰の人であった。どのような困難の中にも光の

 

輝きを信じて歩む信仰者の生き方が証しされている。

 

 

 

 

苦難に生きる信仰者の歩みを覚えるとき、私は常に歴史

 

の勝利の瞬間忘れてはならないと考えている。1995年、

 

南ア国で開催されたRWCで南アが優勝した際、

 

ネルソンマンデラが取り上げられ後に「インヴィクタス (

 

負けざる者)」という映画になったが、私はその試合の実況

 

放送を見ていた。エリス杯を受け取ったキャプテン、

 

フランソワ・ピナールが開口一番に叫んだ言葉は「我々は

 

ユグノー(迫害されて南アに移民したフランス・プロテスタント)

 

の末裔なるぞ!」との言葉であった。残念ながらNHKの

 

アナウンサーはこの言葉の意味が分からず「宗教について

 

・・・」と口を濁した。後に英国紙はピナールに会って次の

 

インタヴ―記事を載せた。「What was your reaction when

 

the final whistle went?」 彼は堂々と「 I fell right to my

 

knees. I'm a Christian and wanted to say a quick prayer

 

for being in such a wonderful event, not because of

 

the winning.」  南アに渉ったフランス・ユグノーは1685

 

「ナントの勅令廃止」後約三百年間、世界で評価される時

 

を信仰をもって生き続けた来たのである。私はクリスチャン

 

の輝かしい証しと確信の表明を‘95年度のラグビーワールド

 

カップを通して見せてもらった。

 

 

 

ペテロ書が教えるクリスチャンの本質は今も変わりが

 

ない。『しかし、あなたがたは選ばれた民、王の系統を引く

 

祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、

 

あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて

 

くださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるため

 

なのです。』 クリスチャンのみならず、広くキリスト教に触れた

 

方々はこの真理を自分のものとして光の中へと強く生きて

 

いただきたい。

 

 

10月メッセージ

 

 

  『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。』

 

                               (ヤコブ書4章6節)

 

 

 

『律法なき民は滅びる』とは旧約箴言の言葉であるが、深い意味を含んで

 

いる。通常、人間の人格を育成し、社会の平和を保持する力は勉めて各

 

個人の魂の有り様に支配される。

 

 

世界の諸民族の中で天地万物の創造者なる神を持たない民族は野蛮人

 

と呼ばれる。ユダヤ人はその人々を「異邦人」と呼んだが、それは侮蔑の

 

言葉である。神の規範を持たない人々の生き様は弱肉強食であり自己

 

本位となり、動物的である。繰り返される民族間の紛争の根底には復讐の

 

怨念が宿り、歴史は常に戦争の火種を残有しているのである。

 

 

神が与えた「律法」とは第一に人は被造物であること、神が創造者である

 

ことを自覚させる。真理と正義の規範は神にあることを繰り返し覚えさせ

 

る。第二はこの神に依存して生きる人間の信義を規定する。神の与えた

 

律法とは神の信義による生活の規範であり、神なき者は自然の栄枯盛衰

 

に身をゆだねるか、自己の経験知による信義に生きるか、自己の価値観

 

によって生きる。神なき者には「良心」がその代わりとなる。しかし悔しい経

 

験はやがて復讐の念を生じさせる。悔しいかな、我々は身近な人間関係

 

においてもその様相を経験する。

 

 

ヤコブ書は悲惨な人間の現状を次のように説明する。

 

『何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたが

 

た自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたが

 

たは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れること

 

ができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないから

 

で、 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、

 

間違った動機で願い求めるからです。』(4:1-3)

 

 

  信仰とは自己の哲学を神に照らして神と共に生きる事である。聖書はその

 

意味で人間の全存在を映し出す心の鏡であると言える。むなしい価値観に

 

生きるのではなく、永遠の価値を持つ神と共に歩むことが新しい人生を形成

 

する。それが勝利の人生となる。

 

 

続いてこう記される。『神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくだ

 

さいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清め

 

なさい。 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに

 

変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高

 

めてくださいます。』 

 

 二千年続く神の教会は、常にこの福音をもって人々を照らしてるのであ

 

 る。

 

九月メッセージ

 

  『愛ある言葉は人を生かす-言葉の力』

 

             (ヤコブ書3章2~12節)

 

 

 

 

 

 人間の人格は言葉によって訓育される。幼子への

 

愛ある言葉掛けは心の教育と共に、強く正しい人間に

 

なるための人格形成に欠くことのできない要因である。

 

ルターによって『藁の書簡』と命名されたヤコブ書では

 

あるが、聖書の神を持たない国民にとっては倫理的・

 

道徳的教訓と豊かな知恵を提供する書である。

 

青少年による殺人事件と共に、続出する大人社会の

 

犯罪増加の背後に教育の貧困を問わざるを得ない。

 

経済的豊かさは各人の生活保障となるべきは当然で

 

あるが、尊い人の生命を諫めるに至る不幸な事件の

 

背後に経済的貧困のみならず言葉の教育、心の

 

教育の貧困を思わざるを得ない。

 

 

 

 

 

 

 

   聖書は『人は罪(ハマルティア)の中に生まれ、罪

 

の中に死んでいる』と語る。罪とは「的外れ」との意味

 

である。すなわち人は人生の意味・目的を知らず、

 

的外れに生きていると言う。また「罪の終極は死で

 

ある」と教える。この空しい世に究極の目的・意義を

 

与えるものがある。聖書はそれを創造者、救世主と

 

呼ぶ。愛ある言葉はその根源から発せられ、人を

 

立てその意義をしめす。それが人の魂を形成し、

 

人生を導く。その言葉を持たないものは皆、同質に

 

無に至るのである。また究極の救いに至る言葉を

 

持たないものはやがて互いに覇を競うものとなり、

 

果てしなき世界の抗争が続けられる。

 

 

 

 

 

 

 

   ヤコブ書は語る。『馬を御するには、口にくつわ

 

をはめれば、その体全体を意のままに動かすこと

 

ができます。また、船を御覧なさい。あのように

 

大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、

 

ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は

 

小さな器官ですが、大言壮語するのです。

 

御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を

 

燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」

 

です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を

 

汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火

 

によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また

 

這うものや海の生き物は、人間によって制御されて

 

いますし、これまでも制御されてきました。しかし、

 

舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを

 

知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。

 

わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、

 

舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。』

 

(3:3-9) 

 

 

 

 

  今日互いに励ましあう言葉はもとより、根源的に

 

生を肯定する上からの愛ある言葉に耳を傾けなけ

 

ればならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

八月メッセージ(桜台教会『月報8月号』より)

 

       

 『キリストは私たちの平和』

              (エフェソ書2章14、15節)

 

 

 

 

『実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを

 

一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、

 

規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。』

 

 

 使徒パウロはエフェソ書においてキリストが敵意の中垣を

 

取り除いて二つのものを一つにし、平和をもたらされたと記す。

 

8月は平和を願い、平和実現のために奮起する月である。敗戦、

 

終戦を超えて再び戦争をしないとの決意を新たにする月である。

 

信仰者はどのような時にも平和を維持する使命を負っている。

 

そのためには敵意を捨て、常に愛をもって正義を貫く努力を

 

怠ってはならない。平和の基礎はキリストに続く隣人愛を行う

 

ことにある。真実な愛には自己犠牲が伴う。個人の信仰に基

 

づく成果は歴史によってその真実が証明される。途中で投げ

 

出された正義感は反って悪しき結末を招く。戦争への反省は

 

続けられなければならないが、信仰に依拠した熱心さでなけ

 

れば憎しみの連鎖は断ち切ることができない。

 

 

 

 

 先日墓参の為に帰省したが、すでに召された両親への感謝

 

とともに、ガダルカナル島沖に、22歳で戦死した叔父への思い

 

を深くした。機関士兵長として輸送船に乗り込んだそうだが、

 

米軍の爆撃を受けて撃沈戦死したそうだ。遺品はないが出征

 

前に撮った瑞々しい軍服を着た写真が残っている。おそらく

 

兄達が出兵したことにより、また幼馴染の友人達も戦場に

 

向かう中で、彼自身は逃亡者にはなりたくなかったのであ

 

ろう。否、国を守る気概をもって出征した。当時の青年達は

 

皆兵役を拒否するなど考えることもなかったに違いない。

 

母方の祖父が死んだ広島の原爆と言い、海軍で戦死した

 

叔父のことを思うと、戦後の平和な時代を生きることができた

 

のは幸いであったと思わざるを得ない。また同時に戦争という

 

悲惨な争いを絶対に繰り返してはならないと思いを新たにしている。

 

 

 

 

 しかし人間の心はサタンの支配下に飲み込まれ、種々の誘惑

 

にさらされていることも確かである。物質主義の現代においては

 

さらに悪魔化する人間が増加している。狂気の犯罪が後を絶た

 

ない。近隣諸国との関係回復もままならない。軍事力をもって

 

覇権を握ろうとする愚かさを食い止める手段は積極的な融和

 

の外交しかない。正当な国力の保持は軍備の増強だけにある

 

のではなく、人間性の構築にこそある。それは常にキリストの

 

贖罪に根差して獲得されるものである。十字架の平和がその

 

基礎となる。

 

 

 

 

 

 

七月メッセージ(桜台教会『月報7月号』より)

  今、初めて本当のことが分かった。』

                        (使徒言行録12章11節)

 

 

 

 使徒言行録には初代教会の活動の様子が記録

 

されている。主イエスの昇天後、約束の聖霊が降り

 

教会が誕生した。エルサレムに留まっていた弟子達は

 

共同生活を営み神殿での祈りを続け、主イエスが語ら

 

れたみ言葉の学びと信者の交わり、奉仕を共にし、

 

宣教活動に従事した。しかし生まれたばかりのキリスト

 

信者に対する迫害は厳しく、ユダヤ教徒と異なる教えを

 

説くキリストの弟子たちに殺害の手が回った。最初の

 

殉教者はステファノであった。続いて漁師出身の

 

ゼべダイの子ヤコブも殺された。ヘロデ王はさらに

 

拍車をかけてペトロを捕縛した。

 

 

 

 

    牢獄に入れられたペトロに不思議なことが起こった。

 

深夜兵士も眠りについたころ、主の天使がそばに立ち 

 

ペトロを繋いでいた鎖が解け、門が開いて無事に

 

脱出することが出来たと言う。詳細は不明だが、

 

著者は捕縛されたペトロが助け出された事実を

 

記している。勝手に扉が開くことはありえない。自然

 

の現象であれば兵士も気付いた筈である。しかし

 

ペトロの脱出には確かに誰かが隠密理に働いた

 

に違いない。主ご自身が人の心に働きかけて

 

極秘に救済の道を開いたに違いない。私は真理と

 

正義の為に身を捧げる献身的な人々の働きを

 

知っている。

 

 

 

 

 

 現代人は自己保全の価値を優先し、他者の為

 

身を削る生き方はしない。勿論自分の生活が成り

 

立っていないのに、他人の為に精を出す生き方は

 

必ずしも良しとされるものではない。いずれ行き詰

 

ってしまうからである。しかし余裕ある人々が自分

 

の為にのみ生きることは罪である。相互扶助の精神

 

は教会が本来大切な徳として説いてきたことである。

 

世界はますます保護主義的となり、経済の不安と

 

共に難民への救済は後回しになっている。弱者救済

 

の政策も政治家中心では利権に基づいて裏金が

 

ほしいままに利用される。健全な社会の背後に利権

 

に絡んた特権に生きる者たちが、湯水のようにお金

 

を使い、贅沢三昧に明け暮れる世界の現実は必ず

 

大きな反発を食らうことになる。

 

 

 

 キリストの愛に救われた人々はどれ程小さいことで

 

あっても誠実に愛と赦しを実践し、真理と正義の為

 

に身を捧げて生きる。参議院選挙が実施されるが

 

日本の針路を正しく導くことが出来る政治家を選び

 

たいと思う。EUの先行きが不安視されるが各国が

 

福音の伝統に立ち返る時、西欧諸国に新しい力が

 

文化を支える基礎には聖書とキリスト教の力がある。

 

六月メッセージ(『月報5月号』より)

  『読んでいることがお分かりになりますか?』

  (使徒言行録8章26-40節)

 

 

     私たちの教会では日曜礼拝で日本基督教団

 

信仰告白を合同教会の信仰告白として告白している。

 

私たちは70年代の教団紛争を経験して、教会はまず

 

福音信仰に立ち、『信仰告白』を明確になす教会の

 

形成でなければならないと自覚し、その形成を目指

 

した。また福音的教会は聖礼典を正しく執行する

 

教会であると告白し、毎週聖餐式を行うこととした。

 

当時、信仰告白は単なる文言で、形骸化した告白

 

文など意味がないと否定され、時代錯誤であると

 

批判された。そして聖餐式も冒涜された。その結果

 

牧師になる教師検定試験の基準は『イエスをキリスト

 

と告白しない志願者をも切り捨てない』との見解が出

 

され教団はますます紛糾した。私たちはそこで有志と

 

共に教団離脱を決行した。

 

 

 

 

歴史的教会はニカイア公会議(325年)で決定さ

 

れた信仰告白をもとに発展した。また歴史的諸信条を

 

告白することによって健全なイエス・キリストの教会が

 

形成された。それらを否定すればやがて歴史から消滅

 

する。主の教会が立つためには『信仰告白』が重大な

 

役割を果たすこととなる。

 

 

 

信仰告白は『旧新約聖書は、神の霊感によりて

 

成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠る

 

べき唯一の聖典なり。されば聖書は聖霊によりて、

 

神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与うる

 

神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。』

 

と記す。聖書が「神の言にして、信仰と生活との誤り

 

なき規範なり」と言う時、その意味することは重くて

 

深いものである。今日自由に聖書を購入して読む

 

ことができるが、皆がその意味内容を正しく理解して

 

 

いるとは言い難い。また聖書を生活の規範とする

生き方などクリスチャンですら心にないかも知れ

 

ない。人は聖書がなくても十分にやってゆけると思

 

い込んでいる。確かに膨大な量の書物を隅から隅

 

まで読むことは骨の折れることである。しかしその

 

内容と語られる言葉には大きな意味がある。現代

 

人の浅はかな知恵ではその意を把握し、実行する

 

ことは困難であろう。 

 

 

 

 

 

     エチオピアの宦官がエルサレムへの旅の途中

 

   でフィリポに出会ったという。宦官はフィリポの解き

 

   明かしを聞いて心の目が覚めた。預言者イザヤの

 

   言葉に贖罪者キリストが示され、聖書の語ることが

 

   理解された。誰かが説き明かしをしてくれなければ

 

   神の言葉を誤解することとなる。そのために教会の

 

   牧師がみ言葉の説き明かしをするのである。

 

 

 

 

五月 メッセージ

 

 『ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』

 

              (使徒言行録3章6節)

 

                   牧師 中川   寛

 

 

 

 復活のキリストに出会った使徒たちは聖霊の導きによって

大きな変化を遂げた。主イエスを裏切った背信の行為を悔い、

キリストの愛と赦しによって回心し、魂の180度の方向転換を

経験した。彼らは生前のキリストが教えた通り、新しく福音に

生きる者となった。魂の根源的な赦しを経験した彼らは新しい

情熱をもってキリスト者として歩み出したのである。

 

 

 

 

 ペトロとヨハネが午後3時の祈りの時に神殿の「美しい門」と

呼ばれるところを通りかかったところ、生まれながら足の

不自由な男が彼らに施しを乞うたと言う。しかしペトロは彼を

じっと見て『わたしには金や銀はないが、持っているものを

あげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、

歩きなさい。』と言って彼の手を取り立ち上がらせた。

するとたちまち男の足がしっかりして歩きだしたと言う。

不思議な奇跡物語ではあるが、同時にこれは新しい時代の

到来を告知する出来事となったと言える。

 

 

 

 

 足の不自由な男は見世物にされ、人前に連れて来られて

 

金儲けの道具として利用されていた。この男は生きるため

 

の方策として、仕方なくその日常に同意していたかも知れ

 

ない。かつてイスラエル旅行に出かけた際、エルサレムの

 

人通りの多い町でわざと障害者を装って金を要求していた

 

詐欺師を見たことがある。誰かに担いで連れて来られたこと

 

も金儲けのための演出であったかもしれない。しかし聖書は

 

その男が施しを乞う彼の日常性を自身納得していなかった

 

ことを記す。ペトロが彼の手を取って立たせると、彼は自分の

 

力で立ち上がり、不思議な自立の喜びを経験したのである。

 

多少の偽善を含みつつ、人の世話になって生きることよりは

 

自分の力で生きる喜びを経験した。将に彼自身の中に奇跡

 

が起こったのである。

 

 

 

 

新生はキリストとの出会いによって起こる。罪の悔い改めと

聖霊の力によって新しく生きる力が生まれる。キリストによる

愛と赦しの経験により新しい価値がもたらされ、自立して生き

る勇気が与えられる。それは人生における決断であり大きな

冒険でもある。見せかけの愛や偽善的な人間の演技、演出は

やがて化けの皮がはがされる。それは嘗てのイエスの弟子

たちの姿でもあった。しかし彼らは復活のキリストを通して

神の真実に目覚め、信仰による奇跡の道を歩む者とされた

のである。ペンテコステの教会はその神の奇跡を証しする。

私達の教会もこの神と共に生きることを誇りとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

四月メッセージ  『神に対して生きる』(桜台教会月報4月号より)

 

 

 

キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれた

のであり、生きておられるのは、神に対して生きておられる

のです。」(ローマ書6章10節)

 

 

                            牧師 中川  寛

 

 

  イースターと共に新年度を迎え、新しい春の息吹に

 

生きがいを覚えつつ、福音の恵みに生きる喜びを共有

 

したいと思います。キリストの復活を告白する信仰は新しい

 

生命の活力を生み出します。人間の生命が死をもって

 

終わるものではなく、永遠の生命に生きる価値をもたらす

 

ものであることを知らされます。私達の生命は自分の自由に

 

なるものと考えたり、その価値を自己目的化したり、或いは

 

享楽的に謳歌すべきものとして勝手に解釈するのではなく、

 

創造者なる神に向かって価値あるものとして生かされている

 

ことを覚えたいと思います。

 

 

 

 

  生命の尊厳は単に人間がかけがえのない価値を有して

 

生まれて来たものであると言うだけではありません。

 

それならばどれほど楽しく生きたとしてもすべては死を

 

もって終わり、無に帰するということになります。しかし人は

 

見えないものによって生かされて生きているのです。

 

創造者なる神が私達に生きる意義を示されて初めて

 

私達は深い人生の喜びを獲得することが出来るのです。

 

その原点にキリストの十字架と復活があります。

 

キリストが復活したと言う事実を受け入れる事によって、

 

無に帰する人間の存在が生かされるのです。使徒パウロは

 

イエス・キリストの十字架と復活の事実を知らされ、はじめて

 

自分が如何に無知であったかを自覚しました。彼は罪の中

 

に生き、死を超えることが出来ないまま、ごう慢に生きて

 

来たことを深く悔い改めました。主イエスご自身も『「医者を

 

来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くため

 

である。」(マルコ2:17)』と言われました。

 

 

 

  すべての存在は無であると言うべきでしょう。

 

しかし信仰をもって生きるキリスト者は年齢に関係なく

 

キリストに教えられ、神に対して生きるのです。キリストの

 

復活を通して暗い世の営みが絶望に終わることなく希望

 

の光に照らされるのです。信仰による希望は失望に終わ

 

ることがありません。若い時から聖書に学び、信仰に生きる

 

生活は神の栄光を求め、その魂が成長する恵みを

 

経験します。挫折を味わっても失敗を重ねても神に

 

生きる人々には道が開かれます。しかしこの世の快楽と

 

栄誉を求める人々には必ず厳しい裁きが下されます。

 

 

 

 

世界が大きく変わろうとする時、暗雲立ち込める

 

八方ふさがりの中においても、上を見上げる信仰に

 

生きる時、恵みが満ち溢れます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三月メッセージ  『キリストの死は神の愛の現れ』

 

 

 

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ書5章8節)

 

 

 

人の死は多くの人々に悲しみを与える。特に親しい人々の死は大きな悲嘆をもたらす。3月に入り漸く5年目を迎えたが、東日本大震災による津波の襲来とフクシマ原発事故の結末は後世に長く伝えられなければならない。人々は悲しみを超えて新しい希望に生き、日々努力に努力を重ね、創成の生きがいを抱きつつ明日に向かって強く生きている。人間の相互協力、連帯の強さが現れ出ている。死と絶望の中から立ち上がるために多くの涙が流され、不安と孤独の戦いが続けられている。ヴォランティアの善意に支えられ、温かい支援に励まされで自分を取り戻した方々の証しの多くに感動した。この事態がいつまで続くのか先が見えないし誰にもわからない。しかし努力が続けられなければ生活は足元から瓦解して行く。私達もまたあの日のことを思い起こして、神による慰めと平安を祈り続けるのである。

 

 

 

 

 

 死が新しい希望をもたらすというのがキリストの十字架である。受難を通して復活に至る。そこに希望の道が示される。キリスト者はキリストの十字架の死によって人間の持つ罪の深さを覚え、それにもかかわらず最後まで人を愛し通されたキリストの姿に神の愛を見る。赦されて生かされる新しい世界がそこに開かれるのである。人の世の儚さを覚え、自己の無力さと無責任さを自覚しつつ、十字架の愛と赦しに導かれてなお他者の為に新しい人生を生きることのできる人格が約束されている。悔い改めの人生が約束されるのである。各自が経験した悲劇の事実は残る。しかしその事実に打ちのめされるだけでなく、そこから生かされて恵みと祝福に導かれる。キリスト信仰の不思議さである。キリストの死が無ければ依然としてこの世は悲劇である。しかし十字架の死の向こうに新しい復活のキリストが立ちたもう。キリスト者は聖書の御言葉を通してその恵みを知らされるのである。

 

 

 

 

 

 キリストの死は人間の生が罪に支配された不条理そのものであることを証する。しかしそれに留まらず十字架を通じて人を生かす愛と赦しの福音が語られていることを知らされるのである。私達は心を神に向けることによって、不条理の中で苦しまれたキリストが慈悲深い愛の赦しの言葉を投げかけておられる姿を見ることが出来る。神の御子の死を通して多くの愛と平和と希望が提示されている。本当の慰めと希望の根拠がここにある。

 

 

 

 

二月メッセージ 

 

『国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。』

                                                                            (ハガイ書2章4節)

 

 

 

 

 

紀元前537年、ペルシャ・キュロス王の支配下、捕囚の民イスラエルは40余年のバビロン生活を終えカナンへの帰還をゆるされた。旧約聖書ハガイ書は僅か2章の預言書であるが、その事情を記している。選民イスラエルの残りの民の故国への帰還である。神への背信と人間の傲慢によって歴史の試練を受けたユダヤ民族は預言者たちの言葉によって神への信仰を回復し、その故郷への帰還の機会を待ち望んでいた。

 

 

 

 

 

今日のイランに位置する旧ペルシャ帝国の偉大さは、BC330年のアレキサンダー大王の出現に至るまで帝国の威光を誇っていた。旧バビロニア帝国は今日のイラクに位置する大国であったが、キュロス王の支配の下、バビロン捕囚のユダヤ人を解放した。ユダヤ人にとっては夢想だにしない喜びの出来事であった。

 

 

 

帰還後のユダヤ人は新しい国家再建の事業に着手し、破壊された神殿の再建を手始めに、ヤハウエ信仰を確立すべく宗教体制を立て直した。民族のアイデンティティを確立するために引き続き律法の書の編纂と民衆への宗教指導として祭司職、サドカイ人、パリサイ人、律法学者を登用した。国家再建のために国を挙げて努力したと言える。

 

 

 

 

 

指導者たちは選民イスラエルの敗北と挫折の原因はどこにあるかを探り、本来神中心でなければならなかったイスラエルの民が、人間中心、自己中心に陥り、霊的生命を軽んじた。彼らは唯物主義に走った民族の罪を深く悔いた。新しい罪の赦しを得させる力はどこから来るか。どのようにしてその事実を確認することが出来るか。

 

 

 

 

 

歴史を超えて事物の本質を見極めようとする考察は今も変わりないが、聖書が語る神の贖罪愛が民族を立て直す原理であることを悟った。新しいメシアの出現は赦しの愛によって民族を活かす。これが預言者の信仰であり、残された民の生きる力であることを知ったのである。預言者ハガイは神殿の基が築かれた後、帰還の指導者総督ゼルバベルと祭司ヨシュアに向かって『勇気を出せ、万軍の主はあなたがたと共におられる』と語りかけ、国家再建の事業を成し遂げた。

 

 

 

 

 

聖書の教えは今も生きている。創造者を見上げ、贖罪の主を受け入れる事により新しい人生が開かれる。今、魂のリバイバルが求められている。正義と公平が求められている。それらは見えざる創造者による開眼によって示される。聖書を軽んじてはならない。教会生活を無にしてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一月メッセージ 

 

日々新たにされて生きる』

          (Ⅱコリント書4章16-18節)

 

 

 

新年おめでとうございます。

 

本年も皆様にとりまして更なる前進の年となりますように

お祈り申し上げます。

 

 

  今年はしかし世界的に更なる変動の年となる予測が

たてられています。中東シリア紛争の諸影響が各地に及び、

テロの危険性は納まるところを知らず、米ロの行方もすぐ

には見通しがたちません。大国に影響されて経済の進展と

社会的貧富の格差拡大、日本社会においては少子高齢化に

よる様々な歪みが激化し、誰にとっても生き難い時代で

あると言わざるを得ません。せめて日本では安全平和が

慰めとなる事でしょう。しかしいつまで続くか保証は

ありません。

 

 

 

 

  厳しい時代ではありますが、信仰者は神と共に

ヴィジョンを持ち、世のため、人のために働きつつ、

価値ある人生を送る事が重要です。キリストの贖罪愛

に生かされて、希望を失うことなく努力するならば、

かならず光明を見出すに違いありません。使徒パウロが

語るみ言葉は彼自身の体験に裏打ちされた信仰の

ほとばしる教えです。聖書が神の言葉として私達に

約束するものは、キリストの福音を信じて生きる

ならば必ず道が開かれるというものです。

 

 

 

 

  使徒パウロは『わたしたちは落胆しません。

たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていく

としても、わたしたちの「内なる人」は日々新たに

されていきます。』と言います。「日々新しくされる」

とは変わらぬものに根差して生きる時に気付かされる

ものです。日本人には『方丈記』に記されるように

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水に

あらず」と語られる言葉に縛られて、日常生活を

刹那主義に走り、最後には大胆に諦めをもって終え

ることがいさぎよい人生だと思われていますが、

それでは人間としての成長はありません。今より良い

人生を生き、今より良い社会を作り、今より良い世界を

作る生き方を選び取らなければなりません。

それが今年の目標となるならば大きく道が開かれます。

 

 

 

 

 

  パウロはまた『わたしたちは見えるものではなく、

見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去

りますが、見えないものは永遠に存続するからです。』

と教えます。見えるものにのみ目を向けていると現実

とのギャップに打ちのめされてしまいます。しかし

見えないものに力点を置いて生きる時、時間の経過と

共に大きく成長している自分に気付かされるのです。

キリストの福音は人を育てる大きな原動力なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十二月   メッセージ(12月号月報より)

 

 『学者たちはその星を見て喜びにあふれた。』

                   (マタイ福音書2章10節)

 

 

 

 今年もまた喜びのクリスマスを迎える。


神の御子イエス・キリストのご降誕の意義は深く、また大きい。


クリスマスの光はこの世に絶望している人々にも再び希望を


抱かせる。悲しみの中に投げ出された人々にも喜びが約束


される。暗黒の中に大きな希望と慰めが与えられる。


それがクリスマスである。紀元4世紀ローマ帝国はナザレの


イエスを神の子と認め、キリスト教を受け入れた。


当時ミトラの祝祭日、太陽の回帰を祝う1225日をキリスト


降誕日と定め、新しい福音によって人々に希望と喜びを


もたらした。それまでの帝国はキリスト教を邪教として排斥し、


信者を殺害し公認はしなかった。


 

 

   キリスト教がなぜ国教として公認されたのか。それは人間の

 

醸し出す悪と憎しみ、争いと殺戮を排除し、愛と赦しをもって人々

 

と社会を再生する福音の力に真理と正義を見たからである。この

 

真理に到達するまでには多くの殉教者の血が流された。人々は

 

悪と不正に愛と赦しをもって立ち上った。復讐は神の業であり、

 

人は反撃してはならないとの教えに、まず上に立つ人々が従った。

 

キリストの贖罪(罪の赦し)の教えに従った。悪が頂点に達した時、

 

不思議に神の平和が人間の社会に示される。

 


 

   近年例を見ないシリヤの難民がEU諸国に移動している。

 

その中にテロリストも交じって空爆する有志連合国を狙い撃ちに

 

していると言う。事態は緊急には解決しない。しかし終わりが無い

 

わけではない。平和の戦いはさらに過激化し、更なる多くの

 

いのちが損なわれる事であろう。それでもクリスマスの喜びを

 

告げ知らせなければならない。希望はキリストの贖罪による愛の中

 

にのみ確保されているのである。宗教が異なり文化が違う国家間

 

においてはクリスマスの意味は正しく理解されないことであろう。

 

しかしその喜びの事実は宣べ伝えられねばならない。

 


 

   福音書が記述するイエスキリストの誕生とそれに伴う周囲の

 

人々の在り様は必ずしも納得のいくものではないかもしれない。

 

しかしマタイは東方の博士たちがベツレヘムの馬小屋で誕生

 

した神の幼子、イエス・キリストとの対面を通して彼ら自身が

 

大きな喜びに満たされたことを記録している。暗闇の世に

 

おいてもひときわ大きく輝く星に導かれて前進するならば、

 

必ず大きな喜びを手にすることが出来るとの証しである。

 

果たして各地で盛んにおこなわれる光の祭典が真の歴史を

 

支える力となることを願いたい。

 

教会はその確かな伝統に立つ場である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


十一月   メッセージ  (桜台教会月報11月号より)



  『だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。』

       (ローマ書11章22節)




  今や歴史が大きく変わろうとしている。人々の激しい移動と

変化がその現れである。絶え間ない紛争と難民の移動は新しい

時代への変化を表している。生活の貧困化もまた厳しい。

かつて貧困女子なる言葉が語られたが、貧困高齢者の続出

も世相の現れである。将来を悲観する事件が後を断たない。

国内のみならず世界も同様である。すべての根源に悪の栄え

と人間の度を越えた欲得のエゴイズムがある。悲しいかな

聖書が語る罪の現実である。



     しかし新しい波も起こりつつある。コツコツと目標を定めて

努力するグループが新しい希望を獲得している。厳しい時代に

一時の気休めも油断大敵であるが、努力を続ける人々には成功

の道も供えられている。特に若い力が活気をもたらす。努力を

惜しまず継続する苦労が必ず道を開く。



     使徒パウロはキリストの福音によって自ら開眼させられて

真理を体験した。選民ユダヤ人の栄光は地に落ちたが、福音に

よって再び恵みがもたらされ、ユダヤ人にねたみを生じさせて

彼等を奮起させると語る。福音が異邦人に及ぶことによって、

ユダヤ人が奮起し、捨てられたユダヤ人もまた神の選びの祝福

に与ると教える。異邦人は福音によって接木された人々である

ゆえに神の恵みを誇ってはならないと諭し、ユダヤ人もまた奮起

する事によって再び神の祝福に与ることが出来ると言う。それが

イエス・キリストの福音である。




  朝ドラの主人公『広岡浅子刀自』は実にすばらしい福音に

触れた人物であった。明治維新をまたいで新しい時代に翻弄さ

れたが、彼女の書き残した『一週一信』はキリスト者の基本を

見事に言い当て、福音の教えがその文章の根幹を貫いている。

若い伝道者を育てる機運を持たなければならないこと、

神への什一献金を惜しんではならないこと、諸外国に対して

文化の背後に何があるかを見極めて対応する事など、今日に

おいても学ばせられる主張である。



     土佐堀通りに面した大同生命ビルは大阪教会から数分の所

にある。伝道師時代に肥後橋から地下鉄に乗らず中ノ島を越え

て梅田まで歩いたものだが、今思えば広岡浅子もまた同じ道を

歩いて煉瓦作りの大阪教会に通ったことであろう。福音が語ら

れる限り希望がある。暗い絶望の時代から新しい喜びと祝福の

世界が開かれる。日本の新しい夜明けがラガーマンによって

開かれたように、努力することを怠ってはならない。







十月  メッセージ 

  

 『忍耐して待つ希望の勝利』(ローマ書8章28節)

 

 使徒パウロが記した『ローマ書』は常に歴史の中で人間の危機的


状況を立ち上がらせた。そこには神の人類救済の事実が描かれる。


人は如何に生きるべきか、神の人類救済の出来事が如何に実現された


かが記述展開される。二千年の教会の歴史の証がその事実を物語って


いると言うべきであろう。古くはカルタゴのアウグスチヌス、宗教改


革時代はルター、カルヴァンによって、近代においてはバルトの『ロ


マ書』によってその事実を理解することが出来る。それは虚無に服し


た人間の現実からの解放であり、福音の勝利の宣言である。イエス・


キリストの死と復活の出来事を通じて神の愛と赦しの事実が明示さ


れ、古い旧約時代の終焉とキリストと共に生きる新しい福音の世が示


される。深く教会で説き明かされるべき内容である。



 

人は常に如何なる時代においても希望を抱き続けねばならない。


社会が活性化されるためにも希望を捨ててはならない。希望の原理は


言うまでもなく聖書にある。しかし聖書は常に教会の説き明かしによ


らねば混乱をきたす。否、近代日本文学者が躓いた通り、読み方を間


違えば命を損なう。いわゆる人間失格を自覚させるだけで生きる希望


は見いだせない。



 

それは人間の実存の虚無を自覚させるだけで虚無からの脱出を提


供する力にはならない。ゆえに人は聖書を正しく学ぶために教会へ通


わねばならない。少なくとも伝統ある神学校で学びの訓練を受けた牧


師の説教を聞くことが求められる。そうすれば必ず道が開かれる。



 

 最近『人を恐れず天を仰いで』-復刊『一週一信』(広岡浅子


著・新教出版社)を読んだ。NHK連続テレビ小説『あさが来た』の


ヒロインモデル広岡浅子の著書である。朝ドラの展開はともかくも彼


女は今から105年前、60歳で大阪教会宮川経輝牧師から洗礼を受


けた。その信仰の確かさと事業家としての女史の働き、また日本女子


大創設の貢献は実に見事である。迂闊にも45年前伝道師として4年


間奉職させて頂いた折には女史について深く学ぶことが無かった。し


かし熊本バンドの一人宮川経輝牧師の功績は目の当たりにした。また


今回救世軍司令官山室軍平、日本女子大創設者成瀬仁蔵牧師との出会


いを通じてキリスト者としての人格を養った事実も知らされる。



 

100年ぶりに復刊された著書の内容は今日において有益な論述が


展開されている。特に信仰のヴィジョンをもって日本を変えようとし


た先輩諸氏、諸人物に感謝したい。






九月 メッセージ  

信仰によって強められ、神を賛美する』

                                      (ローマ書4章20節)

 

クリスチャンは一人ひとりが伝道する熱意を持たなければ教会は


前進しない。欧米の教会は二千年の歴史を通して文化の体制となって


いる。日本のキリスト教はまだ百年そこそこ、教会の歴史と伝統、


信仰の厚みが違う。それは日本人的な宗教観が大いに災いしている。


明治期のキリスト者はキリスト教信仰を「志」の宗教として捕らえ


た。日本人の宗教観は「困ったときの神頼み」、ご利益宗教の一つで


しかない。満たされた日常においては信仰の必然性が理解されないの


である。それは自然宗教に依拠しているからである。豊かな自然の中


では神の道理は不必要となる。しかしそこが問題なのである。



「天の道理」はキリスト教的信仰教義において理解されねば夢遊病


者のたわごととなる。しかし聖書は創造者なる神と被造物人間の神


から離反した罪の現実を明確に語り、罪の悔い改めと贖罪体験を通し


て、キリストにあって啓示された新しい救済の恵みを明確にする。


キリスト教信仰は単なる神への依存心ではない。この神の業に対する


応答である。教会はこの福音の上に文化と歴史を再生してきた。


この事実の継承は信仰者一人ひとりの自覚による。

 



戦後の日本社会の再生はこの福音を確保する教会の再建によって


日本文化への貢献を願っていた。平和の建設は福音の教えに基づいて


発揮された。しかしキリスト者は世俗の誘惑に負けた。経済生活に


翻弄され、自己本位の成功主義におぼれてしまった。

 



今もなお多くのキリスト者は人生への終末期に対する不安を持ち


続けている。お金がなければ満足に葬式も出せない。子や孫への


わずかな遺産でも残しておきたい。老後の生活はどうなるのだろう


か、等等。日常の不安は数えることが出来ない。しかし信仰者は


社会の諸情勢に翻弄されてはならない。福音の約束は必ず果たされ


る。すべて教会のためにささげなさい。そうすれば大きな平安と


祝福を得ることが出来る。神への決断は必ず大きな報いを受ける。



 

戦後大きな顔をして稼ぎまくったキリスト者は今こそ教会のため


にすべてをささげる献身の証を表明すべきである。信仰を持って


生涯を終えた兄弟姉妹が信仰のゆえに賞賛されている事実は見事で


ある。しかしこの世の名声とは裏腹にあれがキリスト教の最後の姿


かと批判されるようであっては情けない。神と教会のために喜びを


もって信仰を表明しよう。














八月メッセージ  

死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神』

                                 (ローマ書4章17節)

 

聖書の神は創造者であり、歴史を導く神である。この神への信仰は


偉大である。使徒パウロが述べ伝える神は贖罪者の神であり、


死から永遠の命命をもたらす神である。日本にはそのような神を


知らせる文化はなかった。日本文化に聖書をもたらしたのは


宣教師たちである。江戸時代の漢学者が漢訳聖書を読んでいた


といわれるが、それによって教会を形成するにはいたっていない。


聖書は教会を形成する書物である。福音により人をしてキリストの


恵みに目を開かせ、愛によって平和な世界を形成する責務を与える。


キリスト者はその使命を担う者である。

 

 

 

  戦後70年を迎えた今夏、人々は戦争反対を叫びつつ平和の

 

恵みを享受している。何もしないで平和はこない。文化力を高め、

 

自衛の組織を強化し、諸外国との平和友好を築くことが平和を

 

継続する道であることは戦後を生きてきた人々が最もよく知っている

 

ことである。しかしその礎はさほど強くない。平和とは何か、国を作る

 

とは如何なることかを学習する努力が継続されねば、良い国づくりは

 

出来ない。その根本をなすのが聖書の宗教であり贖罪による

 

世界平和の哲学である。

 

 

 

使徒パウロは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなく

 なっています」(ローマ3:23)という。それゆえにイエス・キリストの贖罪

 

が必要とされるのである。キリスト者の信仰の覚醒が求められる。

 

敗戦の修羅場から立ち上がって戦後を築き上げた多くの先人たち

 

に感謝の思いを持たなければならない。創造者なる神を知らず、

 

無手勝流に戦争へ突っ走った愚かさを恥じなければならない。

 

宗教は同じではない。世界の人々に靖国神社が理解される

 

わけではない。贖罪のない信心はやがて又暴走する。

 聖書が語るキリストの贖罪信仰がなければすべては無に帰する。

 

豊かな物質文明の中で魂の虚無主義に陥ってはならない。

 

人の生命は神によって創造されたものである。この事実を

 

教える場が教会である。

 

   西洋の諸国家の強さは、たとえ歴史の不正を被っても、

 

 その根本に福音が存することにある。彼らはすでに長い教会的、

 

 キリスト教的伝統を持っている。日本の教会は少数者ながらも

 

 この伝統の上に建っている。無から有を生み出す信仰に生きる

 

 ことは最高の生き方を誇るものとなることを覚えたい。

 

 

 

 

 


七月メッセージ  

   『その血によって信じる者のために』(ローマ書3章25節)


 

使徒パウロが書き送った『ローマ書』には壮大な人類救済のドラマが記される。創造者なる神はユダヤ人を神の選民として特別な使命を与え、人類の模範となる契約を与えたが、その栄光は罪のゆえにかき消された。パウロは神の人類救済の意図は贖罪者キリストによる信仰義認によって新しく示されたと語る。神の救いの目的は贖罪者キリストへの信仰により全人類に開示された。ここに信仰者の新しい契約の民としての役割が求められることとなる。


諸宗教が横行し、宗教的信心が求められる混乱の時代であるが、贖罪の根拠を持たない信心は時代とともに偏向する。人間の罪を断罪し、人類の新しい可能性を提供する再生の根拠は『十字架と復活の主キリスト』により開示される。否定媒介の弁証法的論理であるが、贖罪が無ければすべては空無となる。歴史は贖罪を受け入れる事により再生する。それを受け入れなければ運命の偶然性に身を委ねることとなる。自然主義も歴史中心主義もキリストの贖罪愛に焦点を合わせれば色褪せる。使徒パウロが説く罪の支配に服せしめられた生ある者の死の支配から免れることはない。アガペーと呼ばれる神の愛、キリストの自己犠牲により示される聖なる神の愛に優る存在の力はない。これがキリスト教信仰の本質である。

 

  政治的軍事的自衛の目的は悪の支配が脅威となる限り確保されねばならない。しかし人類の平和共存の大目的が見失われるところでは所詮熱心な議論も単なる人種・国家間の勢力争いにすぎない。人間性が破壊される文化は贖罪なき文化であり、ソドムとゴモラの道を上塗りするだけである。死海の南側にかつて反映したと言われるそれらの町々は今や跡形もない。戦後70年を迎えた新日本国家の歩みは再び戦火を交えることがあってはならないが、それ以前に平和の真価に学びつつキリストの贖罪愛に立ち返らなければならない。



キリスト教会は反戦平和の活動家達に呼応するだけでは真の証しにならない。究極的にはキリストの贖罪が確保される教会の形成が求められるのである。使徒パウロが語る福音が人類救済の根拠であることを説き明かす事こそ世界平和に貢献する道である。『神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。』とのパウロの教えは永遠の真理である。


 

 

六月メッセージ 

 

福音には、神の義が啓示されています』(ローマ書1章17節)

 

教会でも『終活』なる言葉が聞かれる時代である。終りの時をどのように迎えるかを考えるのは良いことではあるが、キリスト者は信仰生活を始めたときから『終活』を生きている。主イエスは『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』(ルカ960)と言われた。死を人生の最後と思って生きている人々にとっては終活こそ最後の生きがいとなるのかもしれない。しかしキリスト者は神の国を生きる者である。この世を超越して生きる力を持っている。


キリスト者はキリストと共に新しい命に生きる。その生き方は利己的、排他的な信仰の生き方を主張するものではない。キリスト者の信仰は自己満足ではない。常に他者への愛と尊敬が払われねばならない。しかしその終局が死(=無)であるならばむなしいことである。キリストと共にある者は神への献身においてこの世と隔絶して生きる。まずは神への尊厳と信頼が優先する。いかに神への栄光を求めて生きるかが問われるのである。見えるものに拘泥せず、見えないものの中に最高の価値を見出す生き方が求められる。そのためにキリスト者は祈りとみ言葉の研鑽につとめることが求められる。


使徒パウロは律法の伝統をこえて主イエスの贖罪愛の中に真理を見出した。キリストの福音には神の義が啓示され、良き人生を歩むことを希求する人々にはすべてのものが整えられ、供えられていることを発見した。これが福音の根幹である。パウロが語るように『神の義』を生きる生き方を身に着けなければならない。キリストの十字架において既にわが魂が贖われていることを自覚し感謝して生きなければならない。魂の贖い無き所に「終活」は無意味である。キリスト者の成すべき第一の事は三位一体なる神との出会いである。神と出会い、神が良しとなさる道を模索して生きることが価値ある人生の目標となる。

 

 キリスト教教育の基本は福音の原理を身につけることにある。人生の艱難辛苦は福音において乗り越えることが出来る。終活にとりつかれると周囲が打算的となり、家族も欲の塊となる。感謝して信仰を共有し、互いにいたわり合って主の道を生きることが最も麗しい神の家族を映し出す。教会生活はその模範を示し、永遠の命に生きる喜びを証しするものなのである。『神の義』は人生に永遠の喜びを与えてくれる。

 







五月 メッセージ  

 

『勝利者となる道』  (ローマ書8章37節)

 

 

 

  スポーツの世界とは違い人生はその最後の時までその人の勝敗は

 

未定である。何不自由のない生活をしていた人がその最後は孤独死

 

迎える場合もあり、病気や事故で思わぬ不遇を経験することもある。

 

多くの場合人はその成行きに任せ、運命に身を委ねる。しかしキリスト

 

者は復活のキリストと共に天に至る希望を抱いて生きる。信仰者は

 

地上の事柄に左右されることなく御国を目指す。魂の最上の経験を

 

した者は最も価値あるもののために生きる。人生の様々な経験は

 

そこに至るための道備えであると言っても良い。最高の人生は復活

 

のキリスト、勝利者キリストと出会うことである。十字架と復活のキリスト

 

を知ってこの世における、いわゆる俗世からの解脱を経験することが

 

出来る。魂の救いを得るためには何が最も大事なことであるかを知ら

 

されるのである。

 

 

 

 

  キリスト教信仰はご利益を求める信心とは異なる。天地万物の創造主

 

なる神が、独り子キリストを十字架の犠牲にし、この世のすべての罪を

 

赦し、最高の喜びを得させ、まことの福音が告知される。これが信仰の

 

根拠となる。二千年の教会はこの真理を宣べ伝えている。ここに偉大な

 

神の愛が示される。私達はこの愛に支えられていることを知り、回心

 

して信仰を得るのである。多くの愛ある行為が人々を感動させるが、

 

実存の根底にこの愛が無ければ人生は浮草でしかない。しかしキリスト

 

の福音と共に生きる者には勝利の人生となる。

 

 

 

 

  使徒パウロは『だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことが

 

できましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。

 

剣か。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたち

 

を愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは

 

確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、

 

未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、

 

他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された

 

神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。』

 

(ローマ書8:3539)  苦しみや艱難に立ち向かう信仰者の手立ては

 

祈りであり、キリストの執り成しである。

 

 

 

 

    17世紀の英国で家庭教育の基本書として国民に配られた聖書は、

 

 その後の国家形成に大きな力を発揮した。聖書から離れる国々は地に

 

落ちる。異邦人なる日本人が聖書に目覚め、福音と共に生きるならば

 

立派な国作りがなされるのである。私たちの使命は福音の勝利の道を

 

歩むことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

四月 メッセージ  

 

『死に打ち勝たれたキリストを知る』 

(ローマ書6章9節)

 

 復活の信仰に生きることは大きな恵みである。人生にお

 

ける最大の出会いは復活のキリストとの出会いである。

 

このキリストを知る為には金銭はいらない。資格も能力も

 

いらない。ただ虚しい自己の存在の殻を打ち破りたいと

 

希求する者のみがその恵みに与る。キリストが甦られた

 

のは正しく生きたいと願う人間に喜びと希望を与える為

 

である。虚無を打破し、無常をねじ伏せて、生の喜びを

 

知らせる。復活の根拠は大いなる赦しの愛である。愛とは

 

結び付きである。愛とは犠牲の上に成り立つ関係性で

 

ある。

 

ヒューマニズムではない。愛欲ではない。欲得でもない。

 

無償の犠牲である。ゴルゴダの丘で十字架に処せられた

 

キリストの死の姿にその愛と赦しの根拠を見る。キリストの

 

復活は贖罪の事実が確かなものであることの保証である。

 

復活が無ければ信仰は夢物語である。復活によって

 

すべての悪が裁かれる。すべての弱き者たちが生きる

 

望みをつなぐことができる希望の根拠ある。キリストの

 

復活は権力によらず、武力によらず、新しい人間の希望 

 

の根拠として啓示されている。それはからし種一粒ほどの

 

信仰によるものである。復活のキリストとの結びつきが

 

人生を支える力となる。キリストの死は復活において勝利

 

を得る。キリストの復活を知らない死は人生の敗北でしか

 

ありえない。虚無を打ち破る力をどこに持つかが人生を

 

良く生きる鍵となる。それ故に人はキリストの復活を受け

 

入れなければならない。

 

   『万物は流転する』とはギリシャの哲学者ヘラクレイトスの

 

  言葉であるが、輪廻転生の信仰は復活信仰ではない。

 

  万物がやがて生き返ると言う信仰はキリストの復活信仰

 

  とは異なる。キリストの復活は一回限りの復活であり、

 

  今ある人生をかけがえのないものとして生きることを求め

 

  る。次回に期待するという諦めの生き方を否定する。二度

 

  とない今の人生を最も価値あるものとして受け止める。

 

  どのような困難に際しても可能性があることを約束する。

 

  キリストの復活があって今を感謝して受け入れる。復活が

 

  無ければあらゆる努力は空しい。

 

   新しい人生の時はキリストの復活から始まる。教会の教え

 

  る福音の原理はここに基礎を持つ。復活を信じて生きる

 

  ことは決して現実逃避ではない。現実と戦い、現実に感謝

 

  する人生である。復活の光が照り輝く限り、私達の人生

 

  には豊かな可能性が満ちているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三月メッセージ 

 

 『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される

                  (マルコ福音書9章31節)





 今年の2月18日(水)より受難節に入った。復活祭(イースター)


4月5日(日)である。日曜日を除く40日間を受難節(四旬節)と呼


ぶ。福音書はエルサレム入城に至るまで三度イエス自身が受難


予告されたことを記す。弟子たちはその事実を受け入れる事は出


来なかった。教会暦はメシアの死を悼んで、復活祭前にキリストの


死を覚える受難節を置いた。しかしこれには深い神の経綸が窺が


われる。


中世の教会はこの期間キリストの死を悼んで快楽を慎み、食事


の節制、悔い改めと献身を教導した。その為人々は受難節の始ま


る前に謝肉祭(カーニヴァル)を楽しんだ。しかし私達はもっと深い


メシアの死が意味する事実と根拠を探らなければならない。


界が悪魔化し、武力による破壊と混乱が支配する中で、キリスト


の死の意味する新しい根拠を見出さなければならない。それは単


なる人の死ではなく、贖罪の死、神への立ち返りを呼びかける


人間再生の原理を語るものだからである。平然と人を殺戮する


テロリストの出現と止むことなき戦争による武力抗争は21世紀が


依然として平和と希望に満ちた世紀ではなく、差別と貧困、復讐と


怨念の渦巻く暗い時代であることを証した。この意味においても私


達は長く不透明な時代を生きなければならないと思わせられる。



 今日、人はどこに生存の意味を見出すことができるのか。また何


に根拠を置いて生きるのか激しく問われている。多様な価値観、


多様な生き様がところ構わず人々を不安へと誘う。しかしキリスト


者はここで、ナザレのイエスが成そうとされた偉大な贖罪の業に深


く教えられなければならない。十字架上で嘲弄され、惨殺された


キリストが三日目に甦ると語りつつ、愛と赦しの言葉をもって執成し


の業をされたことが、不条理の中で死に行く人々に希望となり救い


の根拠となる。キリストの語られた福音が罪赦された人々の新しく


生きる原理となった事実を心に刻みつけなければならない。神は


今もゴルゴダの丘で、イエスの死を通して人々に語り続けておられ


る。十字架のキリストを排斥する人々には殺戮が正当化される。


しかしこの死を受け入れる人々にはたとい殉教の死が訪れようと


も、神にある平安と祝福がもたらされる。


 絶望のかなたに大いなる希望を読み取ることができる。教会の


歴史はその真理の事実を語り伝えている。キリストは『わたしは既


に世に勝っている』(ヨハネ16:33)と私達を励ましておられる。


 





二月メッセージ  


剣を取る者は皆、剣で滅びる。』(マタイ福音書 26章52節)

 




 宗教の基本は『愛・自由・喜び』でなければならない。武力や


暴力をもって宗教を主張するのはサタンの業であり狂気である。


聖書は十字架に磔けされたキリストのゆるしの言葉『父よ、彼らを


おゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。』


の中に執成しの愛の姿を見る。キリスト教が愛の宗教である根拠


である。欧米におけるキリスト教世界がこの愛を正しく理解してい


るとは言い難いが、少なくとも聖書の教える福音の基本「愛と赦し」


を深く見極めなければならない。

 

 

殺伐とした中東の戦争状況は直ちに止みそうにないが、しかし


人は平和に暮らす権利を持っている。より強力な武力をもって敵


を殺害してきたのは、圧倒的な軍事力を誇る西洋諸国である。或


いは戦争商売人たちが武器売買を商売として争いを助長して来


た。しかし主イエスは明確に『剣を取る者は皆、剣で滅びる。』と教


える。使徒パウロもローマ書において[『だれに対しても悪に悪を返


さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、


せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人


たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたし


のすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてありま


す。](12:17-19)と教える。この教えに従って生きることがキリスト者


の基本である。その古い根拠はモーセの十戒にある第七戒「あな


たは、殺してはならない。」である。

 

 

報復は禁止されている。なぜなら神が全てを裁かれるからであ

 

る。すると人々はこぞって「それでは負け損になる」と言うであろう。

 

弱肉強食の時代に「誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けな

 

さい。」との教えは無意味であるとする。しかし決してそうではな

 

い。真に平和を求めるものは強い意志をもっている。正義のために

 

愛敵の務めを果たさなければならない。

 

 

 突如暴力が振るわれてもそれを受け入れよと言うのかとの反論

 

も聞かれるであろう。しかし危険に対してはそれなりの自己防衛を

 

必要とする。普段でも日常生活において体格の堂々とした武闘家

 

の人には手出しすることはない。子供の時から自分に自信を持た

 

せて危険を避けるようにしつければよい。悪に勝つためにはまず自

 

己に勝つための躾が必要である。子供に対しては大人が模範を

 

示すことが必要なのである。明治以来、日本人は自己を律する生

 

き方を捨て去ったのではないかと案じられる。


 

 

 

 

 

 

 

新年1月メッセージ  


『悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。』

(ローマ書 12章21節)

 

 人は幼少時より正しい倫理観によって育てられなけれ

 

ばならない。人生の勝敗もその人の持つ倫理観が左右す

 

る。若い時代には現象的な事柄にのみ目が向き、よく理

 

解されないまま年を取るが、高齢化時代に多くの人々が

 

自己の生活に満足し、人生を納得して日々を送る人が少

 

い。我武者羅な人生を生きて来た人々も自分は何者で

 

あったのかを確認する術を持たない。結果的に自分と他

 

人を見比べて、相対的な評価で納得せざるを得ない。し

 

かしそれは自己放棄である。

 

 

  使徒パウロはローマ書12章以下に人がいかに生きる

 

きかを説いた。キリストの福音に生きた人々は神と共

 

生きる道を選び、キリストと共に生きる価値観を持

 

ち、神の子イエスは私をどう見るか、と考えつつ自己の

 

倫理を確立する。こうして神を仰ぎ人を愛する倫理の基

 

本が教えられる。その根本は宗教であり信仰である。倫

 

理を確立する宗教こそ本物の教えであると言わねばなら

 

い。

 

 

 昨年日本の古典歴史、日本文化を形成してきた古神

 

道、仏教、儒教の伝統を学んだ。いわゆる「記・紀」文

 

書以前の日本文化の伝統の中に、ユダヤ的背景の人間

 

観、自然観、倫理観が現れているとの指摘に改めて聖書

 

の歴史的伝統の豊かさを知った。奈良京都の歴史文化の

 

中にヘブライ的影響のあることが知られている。シルク

 

ロードの時代より東西文化の交流と混交の中で良い物が

 

継承されてきたと言える。

 

 

  日本人は天皇制による歴史形成を強調するが、その背

 

 後にもヘブライ的志向が見受けられる。しかし根本的に

 

 はキリストによる贖罪愛が見捨てられてきた。イエスの

 

 神の子としての自己犠牲が見捨てられ、都合の良い合理

 

 主義が優先されてきた。その結果最も大切な信仰と倫理

 

 が見捨てられてきたのである。聖書はユダヤ・キリスト

 

 教の正典であると共に歴史書であり、古代メソポタミア

 

 の文化を理解する参考書でもある。シュメールの歴史を

 

 学べば学ぶほど、聖書の記述の正当性が確認される。

 

  文化の進展は倫理に対する尊崇の念によって純化され、

 

  醸成される。聖徳太子が仏教の教えに学んだと言われる

 

 が、モーセの十戒に優る教えはない。パウロの倫理観は

 

 モーセの律法を土台にし、神の愛に根拠を置く新しい教

 

 えである。未(ひつじ)年の今年、「神の小羊」を中心

 

 に置く聖書の教えに一層目を向けたいと思う。悪に負け

 

 ることなく世界を切り開き、希望の溢れる道を進もう。

 


 

 12月メッセージ

  『人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ

    旅立った。』(ルカ福音書 2章1-7節)

 

 

 

今年もクリスマスを迎え、皆様の上に主のご栄光が豊かに宿りますように祈ります。神の御子イエス・キリストの誕生は厳しい時代状況の中にも神の救いの御手が、しっかりと私たちに差し出されていることの証しです。キリストを通して神と結びつくことが私たちの生きる力となります。時代がどのように移り変わろうとも、キリストを通して示された神の愛と赦しのみことばは、信仰をもってそれを受け入れる人々に驚くべき祝福を与えます。私達は単に救いを待ち望むのではなく、既にキリストのよって与えられていることを知らなければなりません。

 

 

当時、ローマ帝国は新しい皇帝の政策により納税者の確保と権力の浸透の為に人口調査を実施しました。人々は恐らく重税に苦労したことであろうと推察されます。彼らは軍隊をもって各地の住民を威圧し、皇帝の名によって民衆を支配したのです。皇帝の命に服従する者には命の保証が与えられ、反発する者には容赦なく武力が行使されました。これは強制的なことで帝国の支配する領域に住む人々は誰もが従わなければならなかったのです。

 

 

ヨセフはダビデ王の家系の者であったと言われています。彼の出自はベツレヘムにありました。それ故に彼は身ごもっていた許嫁の妻マリアを伴ってダビデの町に帰って行ったのです。彼らの旅路は不安に満ちていました。権力によって強制された住民登録であり、マリアは既に子を宿していました。政治的にも生活が保障されるものではありません。彼らの行動を支えたのは、ただ神の御心が示されるという一点だけでした。無謀な旅ではあったがすべてを主にゆだねて生きる以外に道が無かったのです。

 

 

 信仰者とはただ神にのみ信頼して生きる者です。神への信頼によって神と結びつくことが信仰者の在り方ではないでしょうか。人は魂の根無し草であってはならないのです。神との結びつきを信仰の決断によって表明することが求められます。それは洗礼を受けると言うことに繋がります。信仰者は首尾一貫して神への信頼に生きる者です。優柔不断な生き方は自分の都合に合わせた利己主義です。人は魂の住民登録をして初めて生きる証しを得るのです。その為にも私はエスキリストの名による洗礼を受けることを勧めます。困難に打ち勝つ唯一の道は神との拘わりを持って生きることであることを知らなければなりません。ここに本当のクリスマスがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

11月メッセージ  

『キリストを知る信仰によって

             わたしが変えられる』

 

(ヘブライ人への手紙11章1-3節)

 

 

ヘブライ書の著者は『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』(11:1)と教える。キリスト者が持つ信仰とは言うまでもなく十字架の主イエス・キリストへの信仰であり、神の大いなる赦しの愛への応答である。神の赦しの愛(アガペー)は人の愛(エロース)とは異なる。人間の愛を凌駕し質的に異なるものである。このキリストの愛はギリシャ人やローマ人、ユダヤ人にも理解されなかった。しかしキリストを受け入れた人々には新しい命が与えられた。キリスト者とはキリストの純粋で高潔な愛に魂を揺さぶられ再生された人々である。

 

 

   かつて青年時代に『パスカルに於ける人間の研究』(三木清著)を読んだ。三木清は戦前ハイデルベルクに学びパリに移ってパスカルを研究した。帰国後法政大学で哲学を講じたが、戦中左翼活動家を匿ったことで投獄され、戦争直後獄死した。惜しまれた哲学者であったがその著作にはキリスト教に触れた足跡が見聞される。特に処女作と言われる先述の書物はキリストの愛が実存を支えるものであることが論述される。この愛なき人生は慰戯と称され虚無に支配されたまま価値なきものとなることが語られる。

 

 

     京都大学で西田幾多郎の元に学んだ三木は洗礼を受けるには至らなかったが、深くキリスト教を理解した人物であった。彼は神学者熊野義孝を高く評価した。私は熊野先生の『終末論と歴史哲学』によって信仰的実存を得た。今日深く哲学を志す人が少なくなったが、人間を考える原点として再考されなければならない。「無」を超えて「有」に至る確信はキリスト教信仰を抜きにして考えられない奥義である。

 

 

     信仰は一時の情熱や信心に依拠するものではない。それは人間を根底から変革する力である。人の罪の赦し、新しい生き方を促す勢いを持つ。死にゆく人間に永遠の生を与える。罪に染まった人間を決定的に悔改めさせ、目覚めさせる。人生により高い目標を与え、新しい生きがいを提供し、使命に生きる意欲を駆り立てる。不思議な力を与えるのが贖罪愛でありキリストへの信仰である。

 

 

 

キリストがわたしの罪のために十字架の上で死んで下さったという事実が私たちを変える。教会はこの神の愛(福音)を伝えるために建てられた救いの拠点である。聖書に深くなじむことが最良の人生を生きる力となる。

 

 

 

 

 

 

 

10月メッセージ 『新しい道が開かれた』

                       

                    (ブライ人への手紙10章20節)

 

 昨今の社会現象から世の中がますます悪くなっているように思われる。弱者に対する暴力事件、小さな子供の殺害、老々介護の諸問題等々数え上げれば限がない。お金万能主義と唯物主義による精神的疲弊が個人の心を蝕んでいる。私生児を16人設けてやがては千人計画豪語する無能な成金主義者には怒りが収まらない。かつてその人の関係する会社に死んだ息子が働いていた事もあり、子を亡くした親として、怒りが収まらない。聖なるお方が見えない現実で何をしても赦されるという人間の傲慢さは打ち砕かれねばならない。残念なことだが人間万能主義の時代では愚かな人々には何が自己を高めることであり、社会をよくする方策とはいかにあるべきものであるかを学ぶ気持ちさえ持っていない。

 

しかし神は破滅的な日常の中で人間の実情をじっと注視しておられる。少数者にすぎないが、清く正しい人々の群れを神は育てておられる。へブル書の著者はその事実を語る。神の独り子なる御子イエス・キリストが来られたのは人間の生きるべき具体像を示す為であったと言う。 イスラエルの古い律法(神の戒め=人が生きるための生活規準)によっては神の選民と呼ばれたイスラエルの人々においてさえ、人間回復が不可能であることが明らかにされた。ゆえに、神は新しい人としてイエス・キリストをこの世に送られた。しかしキリストは自ら十字架の死によって神の使命を果たすことになった。

 

イエスは自らの犠牲の死を通して、仕切られていた神に至る聖なる垂れ幕を廃棄された。この世の罪とけがれによって分断されていた聖なる神の領域を、キリストが十字架の犠牲をもって廃棄された。そのゆえにキリストを手本として生きる者は、罪を重ねること、悪や不正を行う事は赦されない。キリスト自らが『ご覧ください。私は来ました。御心を行うために』と語られている通り、キリストを知る時、心は清められ、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われる。ここに新しく開かれた道がある。ですから聖書の指導者は「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」と呼びかける。

 

 人は自らの良心に訴えかける神を知らないがゆえに平然と悪に染まり、悪に走る。「生ける神の手に堕ちるのは、恐ろしいことです。」と言うことすら知らないで平然と悪に走る。しかし教会の指導者は確信をもって「わたしの正しい者は信仰によって新しく生きる」と教えるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

九月メッセージ  

 

『キリストは新しい契約の仲介者である』

 

(ヘブライ人への手紙 8章6節)

 

 

 

『行く川のながれは絶えずして、しかも元の水にはあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。』 有名な鴨長明が記した『方丈記』の初めの言葉である。平安時代末期(1155年)から鎌倉時代(1216年)に生きた歌人であり随筆家であったが、その思想は無常感である。彼は続いて『知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いずかてへか去る。』と記す。彼の時代感は深く日本人の心に根差している。多くの人はこの無常感に共感し、人生の最後は成り行き任せ、と諦念に生きる厭世思想を共有する。

 

 

しかし聖書は創造者なる神の存在を証しする。神と共に、神が創造された世界で新しい命をもって生きることが求められる。キリストによる罪の赦しと復活による新しい命の覚醒が教会を通して語られる。アダムの罪は暗黒の世界をさまよう救いなき姿ではあったが、キリストの福音により、再生の希望が示された。教会による新しい時代が聖書と福音を通じてこの世にもたらされた。それは闇を打ち破り、絶望から希望の光を指し示す喜びの福音として提供されたのである。新しい啓示の光である。キリストの時は贖罪による罪の赦しの時である。人類の歴史にはなかった新しい福音の告知である。一時の平安を得るために神仏にすがる思いとは異なる。孤独と不安を打ち破り、虚無を廃し、神による新しい相(エィオーン)を告知する。虚無の支配する暗黒の時代はキリストによる復活信仰の告知をもって終わりを告げた。新しい光の時代到来、これが聖書の福音である。

 

 

 先日ある著名な評論家の『神は死んだ』と言う解説を聞いた。彼はドイツ文学者でニーチェの翻訳者でもあるが、ニーチェの信仰と福音への拘りを誤解していた。ニーチェは牧師でもあったが、福音そのものを光と捉えその原点に即して歴史を概観してみると、教会は人間の病んだ精神を救済する機関であり、時代と共に世相を共感する慰安所としての働きでしかないと批判する。その観点に立てば仏教もギリシャ哲学も同様であろう。評論家は妙に仏教に肩入れしていたが、『神は死んだ』と言うニーチェの批判点を全く理解していなかった。ニーチェがなぜゾロアスター教を持ち出すのか。その本質がマツダ(光)でありキリストの福音の根拠を光と捉える時、彼はツァラツーストラなる預言者にならざるを得なかったのである。仲介者キリストの福音は光(救済)自体である事を知らねばならない。この光は古い体質を破壊し、新しい時代を創生する。

 

 

 

 

 

   

桜台教会標語:

『時が良くても悪くても。み言葉

 をのべ伝えなさい。』

 

2014年の聖句:

『光の子として歩みなさい。』

(エペソ書5章8節)

 

 

2014年 私たちの教会目標:

 1.主日礼拝を大切にする。 

 2.互いに祈り、主にある交わりを図る。 

 3.み言葉を証しする教会。

 

 

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

 

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

 

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。 

               

            (マタイ11:28-30)

 

以下前月のメッセージ集

 

八月メッセージ

 『あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような

  祭司である』

     (ヘブライ人への手紙7章17節)

 

キリスト教信仰は徹頭徹尾イエス・キリストに固執し、キリストが共にいますことを救いの根拠とする。キリストは二千年前に突然出現した神の幻影ではない。マリアから生まれたナザレのイエスご自身である。歴史的存在としてこの世に生まれ、神の国の到来を告げ、福音を証しし、ゴルゴダの丘で無罪の人であったにもかかわらず、愚弄されて十字架に処せられた。すべてを聖なる神に賭けて自らを委ね、罪人を愛し通された。我々はこの十字架に神の愛の姿を見る。その死は我々に罪の赦しを得させる贖罪の死であったと告白する。ここに神のまことの啓示を見る。福音とは実に十字架のキリストを知ることによって体験される神の平安である。新しい希望はここから始まる。十字架こそまことの信仰の原点である。

 

ヘブライ書の著者はこのキリストがメルキゼデクに等しい祭司であったと言う。メルキゼデクは信仰の父アブラハムを祝福した祭司である。彼はメルキゼデクに自分の持つすべての十分の一を分け与えたと言う。メルキゼデクとは『義の王、サレム(平和)の王』との意味であリ、彼には「父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司である」と言う。ナザレのイエスの生涯を正しく旧約の最初の祭司になぞらえて語る著者の信仰は「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天より高くされている大祭司こそわたしたちにとって必要な方なのです。」(7:26)と告白する。  

紀元1世紀末のユダヤも今日と同様の混乱した時代であった。ヘレニズムとラテン文化の影響を受け、価値の多様化と共に若者たちが頽落した生活に陥り、救いのない悪に染まり、信仰生活から脱落する者が増えた。文化の退廃に同調し、悪の勢力に引き込まれ、教会から離れていく若者が後を断たない。そのような時代に人間性を失わず、生きる原理を明確に教示したのがヘブライ書である。

 

 人が希望を持って力強く生きる事の出来る原理は無償の愛にある。家庭においてまず父母がそれを教えなければならない。人間教育の基本は家庭にある。学校も地域社会も無償の愛に価値があることを教えなければならない。教会教育の根幹はキリストの贖罪愛であるが、ここから人も社会も再生されなければ、悪しき世を変えることはできない。時間が掛かるが社会を変える原理がここにある。                          

                  牧師 中川  寛

 

 

 

七月メッセージ 『イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。』

 

(ヘブライ人への手紙 13章 8節)

 

 

 

『神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。』 かつて大木英夫氏によって紹介された有名なニーバーの祈りである。激変する世界において、すべてが変わりゆく時代を迎え、実は今こそ変わらない価値が求められている。不変の価値をどこに持つかが今を生き、負けない生き方する人間の重要問題である。

 

自然の巨大な変化によって日常生活が変わらざるを得なくなっている。人間の作り出した英知の結晶である原子力の賜物が、人類の将来により一層の重圧をかけた。3.11以来、自らの手によって変化を求める変革の戦いが、大衆社会に生きる知性ある人々には、もはや空しさを覚えるだけのものとなり、無力感が漂っているのではないか。情報の即時的獲得とその反応の加速化は今までの知見をもってしては到底役立たない未知なる展開を招来している。

 

すべてが加速度的に変化する多様化の時代を、いかに勝ち抜くかが現代人の知恵となる。恐らくビジネス経済の最先端の世界では半年前の資料は全く役に立たないゴミ屑でしかないだろう。その時人間はどうなるのか。勝ち組、負け組のすみ分けは意味をなさない。早晩事態が変われば「明日は我が身」と言う不安が頭をもたげる。かつての隠された為政者の独善的な愚策が更に人々を失望させる。これからの生き方はどうあるべきか。ある種の精神的飢餓状況に偽善がはびこり、エゴイズムが追い打ちをかけ、人間関係が疎遠になり、何とか自分だけ生き延びる方途をまさぐる人種が増大する。その為には犯罪が増え、自暴自棄の逃避感から薬物依存者が増え、至る所に暴力が横行する悲しい将来を想像させる。

 

暗い時代には歴史の知恵が求められる。その根拠が聖書である。何が変わらぬものであるかを見極めた人生は社会や歴史が激変してもブレル事はない。変わらない知恵は普遍妥当性を持つ。教会はその原点に立って福音の在りかを証しするのである。キリストの真理は昨日も今日も変わりない豊かな価値を提供する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

六月メッセージ  

 『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたく

  なにしてはならない。』

      (ヘブライ人への手紙4章7節)

 

 

 

牧師 中川  寛

 

『今日、あなたが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。』(詩95:78)とへブル書の著者は三度語りかける。神の言葉とは人を正す言葉であり、人を正しい道に導く言葉である。それは一人の人を一人前の人間に育て上げ、作り上げるための訓育の言葉であり、教育・指導の言葉である。それらの言葉は正義に通じ、真理に通じる。時には優しく、ある時は厳しく響き、耳を塞ぎたくなる場合もある。しかしそれが神の言葉であることが分かるのは時を経てからの場合が多い。語られた言葉をどの様に聞いたか、或いはそれに反発してきたかが今の自分を作っていると言える。

 

使徒パウロは『信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。』(ロマ10:17)と言う。キリストの言葉を聞いて受け入れるか、それとも無視するか。実はこの違いが人生を大きく分ける。キリストの教えに照らして自分の判断がどのようであったかが決め手となるからである。キリストに恥じない判断ができているならば、時を経て必ず事柄は良い道に進む。しかし自分の判断による場合には結果が良くても時が経てば必ず色褪せる。

 

神の言葉を聞いたと言う人が最近では罪の責任転嫁と責任放棄の手段としてうまく神を利用している。犯罪者が責任逃れのためか神がかり的異常者を装うこともある。無責任時代の常套手段とも言える。しかし聖書は責任転嫁するために神の言葉を聞けと言っているのではない。今の時代を強く生き抜くために正しい神の言葉を聞きなさいと教える。

  『キリストの言葉』は純粋な愛(ピュアー・ラヴ)の言葉である。打算的な下心のある言葉ではない。条件付きの言葉でもない。自己を無にして他者を愛し、進んで弱者を受け入れる自己犠牲の言葉である。それを十字架の言葉と言う。純粋な愛(アガペー)に裏打ちされた言葉であり、常識破りの言葉と言っても良い。それがすなわち福音である。イザヤは『主を尋ね求めよ、見出しうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。』(イザヤ55:)と語る。これは真実である。日常生活の多忙さに信仰を見失う人が多い。熱心に教会に通って聖書を教えていた人まで信仰を捨て教会から離れる。まことに残念なことであるが、キリスト者はまず家庭から信仰の実践と継承をすべきである。

 

 

 

 

 

 五月メッセージ

事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるす。』             

           (ヘブライ人への手紙 2章18節)

 

牧師 中川  寛

 

  キリスト者の慰めは歴史の主ご自身が自ら身をもって苦しまれた事実によって与えられる。キリストが人間社会の不条理と戦われ、その矛盾を告発するだけではなく、大きな愛をもってその事実を引き受けられたがゆえに、信仰者は安心してすべてを彼にゆだね、新しい可能性の道を歩むことができる。その意味で苦難のキリストは我々の同伴者である。究極的に、キリスト以外に頼るお方はいないと言うべきである。これは大きな真理である。

 

私はかつて大病し、ショック状態で大手術を受けた。家族が執刀医の示した念書に署名し、或いは術後戻ってこなくても止むを得ないとの決心をさせられた。手術が始まり私も深い闇の中を漂う経験をしたが、3時間後執刀医の呼びかける声に目が覚めた。術後の体は金縛りにあったように身動き出来ず、痛みとの戦いであった。しかしその時ふと心によぎったのはヨブの言葉であった。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1:21) 手術前、手術室に向かうストレッチャーの上で、自分は何一つ持たない身であることを自覚した。或いは生きて帰ってこられないかもしれない。もしそうであるならば、死にゆく自分の支えになるものはなんであろうか。その時何もないことを悟った。牧師である私は執刀医を前に、短く信仰の有難さを感謝して、声を出して祈りの時を持った。

 

人は死にゆく時この世のものは何一つ持たないが、信仰をもって贖罪のキリストを抱くことが支えになることを深く体験した。そこにはキリストへの信仰があった。しかし同時にその時、信仰のない人は実に不安であろうと感じた。すべて滅び行くものに心を寄せても支えにならない。家族の愛や友人への思いは、死に行く者にとっては感謝の思い出になる事であろう。しかし心に未練が残る。その未練は死への不安と共に「わたしはまだ死にたくない!」との叫びにもなる。しかし有難いことにキリスト者は「我が主よ、すべてを御手にゆだねます」との言葉を発することができる。これには大きな救いがある。

 

  へブル書の著者は十字架上で死んだキリストが神の御子であることを深く知っていた。この方による以外に救いはないと確信していた。しかし彼の周囲にはキリストを受け入れない者、迫害のゆえに信仰から離れて行く人々が出た。彼はそれらの人々を諭すようにキリストは自ら苦しみを体験し、信仰の勝利者となったこと、この方を永遠の救い主として受け入れることを教えた。それは私の救いにもなったのである。

 

 

 

 

四月メッセージ

『開かれた新しい道を歩みましょう』

(ヘブライ人への手紙 10章20-25節)

 

牧師 中川  寛

 今年のイースターは4月20日(日)である。例年に比べると遅い年に当たる。イースターが遅いと春の到来も遅いと言われるが、異常気象なのか春の日差しは温かい。大雪の降った2月、3月復興の努力を続ける方々を覚え、彼らの労苦が察せられた。時間はかかるが前進している様子に祈りを合わせた。

 

キリストの復活は私たちに大きな喜びと平安を与える。十字架上で苦しまれたキリストが死んですべてが終わったのではなく、信じた弟子たちに新しい勇気と希望を与えられた。復活のキリストは『平安あれ』と弟子たちを激励される。裏切りと無視、無関係を装ってキリスト者であることを拒んだ弟子たちに、新しく生きよと拘わって下さる。それは愛と赦しの行為である。私たちも醜い自分を捨て、復活の光を受けて再度真人間となって赦されて生きる体験を持つ。弟子たちはこの経験を通して本当の神を知り、神の権威を知った。赦されて生かされる再生のエネルギーがこのキリストによって与えられることは、やがて個人の出来事を超えて、歴史を新しく変える力になった。キリスト者はこの事実を教会の歴史を学び確認する。それは最高の喜びの瞬間である。

 

 私たちは何が無くとも生かされている現実に感謝し、新しいヴィジョンに生きることができる。一人一人の命の価値はこの回生を経験することによって倍加する。復活は無から有を生み出す力である。死から命に至る大変化をもたらす。信仰をもって生きるとはこの世に絶望し、最後は神頼みに至る諦めの思いを持つことではない。たとえ望みがなくとも神の息吹を信じて前を向いて生きることである。

 

ヘブライ書の著者は『イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。』(20節)と語る。そして『約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。』と勧める。高いヴィジョンをもって時代の誘惑に負けないように強く生きる事を教えている。その為に互いに愛と善行に励むよう心掛けなさいと言う。古い自分に死に新しい復活のキリストと共に生きる生き方を身に着けましょう。信仰生活を軽んじていると必ずサタンの誘惑に落ちる事になります。私たちの生き方は『十戒』の教えを守り、『主の祈り』を身に着け、『信仰告白』実践するところにあります。

  

 

 

 

 

真新しい教会の雪の庭です。

(2014.2.16)