七月メッセージ(桜台教会『月報7月号』より)

 

 

 

 『大混乱の中で神の知恵を知る人々』   桜台教会 牧師 中川  寛

 

 

 

六月末、大阪で開催されたG20宣言「強固な世界経済の成長の情勢」セッション中の貿易と投資項目において『我々は自由、公平、無差別で安定した環境を実現し、市場開放に努力する。』との言葉が明記された。経済の不公正が世界の不安を招くことは言を俟たないが、同時に文化、宗教の違いも大きな誤解を生む。

 

 

使徒言行録は激しい迫害の中で使徒たちが勇敢に、平然と福音を宣べ伝えていた様子を記す。反対者たちは嫉みによって彼らを投獄したが何者かによって解放され、神殿の境内でキリストの贖罪による新しい救いの事実を宣べ伝えていた。

 

 

 反対派はさらにキリストの名を掲げる人々を攻撃しようとしたが律法学者ガマリエルはある事件の例を取り上げ、議員たちに向かって『あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。』(5:38,39)と説得した。

 

 

世界は今もなお大混乱の中にある。米国は強大な軍事力を持ち、同時にその威力をもって世界を統治しようとしている。また大統領は戦争をしないと言うが、その真偽のほどはまだ不明である。私は馬鹿正直にそうであってほしいと信じているが、他者はどうであれ、崇高な倫理性を持つ聖書の福音に生きる者は『神を畏れ、正義と平和に生きる』道を糺さねばならない。ガマリエルが深い知恵を説く通り、その思いが人間から出たものならば自滅するだろうし、神から出たものならば神に逆らう者とされることとなる。

 

 

フランス革命が『自由・平等・博愛』をもって国家の基礎としたことは継承されなければならないが、聖書的理解なしにこれを標榜するならば、愚かな人間愛の自己肯定で終わってしまう。その背後にある福音的聖書的規範を理解することなく博愛を実行することはできない。米中、米朝、米イラク等の対立をどのように解消できるかは未だ闇の中であるが、聖書的原理に従えば福音賛美の中で新しい希望が見えてくるに違いない。

 

 

社会的諸問題に圧倒される品疎な日々の自分を悔い改めて、神と共に生きる大胆な生き方が求められる。それは贅沢な生き方をする事ではない。贖罪の主、キリストと共に自己に負けず、この世に負けない生き方を選び取る事である。聖書の神は従う者を欺くことはしない。見捨てることはしない。悔い改めをもって主と共に翻って生きる事が求められている。同時に日々の努力を怠ってはならない。キリストの眼が私たちに向けられている事を常に誇りに生きるのである。

 

 

 

【聖書】  

使徒言行録 5章17-42                                     

 

そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、 使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。 ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。 これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。 下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。

 

 5:23 「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」 この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。 そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。 そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。

 

 

 

 

   六月メッセージ (桜台教会『月報6月号』より)

 

   

 

   『新しい主の民の上に、霊の力が降り注がれる』

 

                    (ヨエル書 3章1節)

 

               

 

            桜台教会 牧師 中川  寛

 



 

   キリスト昇天後、約束の聖霊が降った。キリストの福音は人種、種族、文化、地域を越えて全世界に宣べ伝えられ、信じるものに自由と喜びをもたらしている。二千年前の出来事であるが、エルサレムの二階座敷に集まっていた人々の上に聖霊が降り、祝福された神の民の集団が誕生した。主にある希望に生き、信仰と希望と愛をもって貧しき人々の上に喜びに生きる神の祝福を示した。人々は教会と共にその福音による新しい人生の喜びと平安を知った。 

 



 

   今日その福音の源流に生きる人々が世界を変えつつある。米国のトランプ大統領を含むアメリカの新しい福音主義の人々を『反知性主義』と位置付けてその活動に注目している。ある日本の保守派評論家は「彼(トランプ大統領)は日本で言えば田中角栄、小泉純一郎のような存在だ」と言う。この『反知性主義』なる言葉はICUの森本あんり氏がトランプ旋風を紹介する書物で米国の歴史的思潮の一つとして使った言葉であるが、ようやくトランプ大統領の政策の根幹が認知されるようになった。米国東部のアイビーリーグと呼ばれる名門大学の多くは牧師養成の神学校として建てられた学校であることを認識し、紹介し始めた。日本人インテリの大半が米国政治のキリスト教的背景を単なる新興宗教勢力としてか理解できていないのは残念なことである。

 



 

   しかしだからと言って米国社会が格差社会から直ちに立ち直るわけではない。いまだに各地にホームレス村が多数存在する。失業率が回復されたと言っても一部の人々に留まっている。高齢化が進み、貧困化に歯止めがかからない。薬物依存と犯罪、家庭崩壊、教育困難世帯も存在し、中国政府への関税率25%問題での悪影響も出ている。サン・ノゼ、シリコンバレーにあるIT企業も税金の安い地域に移転していると言う。海外に移っていた企業も米国への引き戻しに躍起になっている。すべて20年の間に財政と知的財産が中国に吸収されたためである。日本も同様の事が起こっている。経済的危機は更に消費税アップの増税政策で弱者は金縛り状態である。 しかし私は米国の姿勢を支持したい。その背後にキリスト教共通の文化理念があり、福音的な新しい霊の存在を共に仰ぎつつ、信仰を持った人々による社会改革の取り組みがなされていることを見るからである。

 



 

  秋から日本でラグビーワールドカップが始まるが、文化・社会の形成には時間がかかるが、継続され続けなければ成果を見る事が出来ない。乳飲み子がミルクを慕うがごとく、霊的な福音の滴りを欠いては国家の本当の成熟はない。その意味でもジャパンRUGBYが日本文化形成の原動力になるとの認識がなされなければ、実(じつ)のある豊かで強固な日本文化が形成されることはない。

 

 

 

 

 

 

 5月メッセージ 『月報5月号』より

 

 『エマオから再びエルサレムへ―あの時心が再び燃えた-』                                                   (ルカ福音書 24章13~35節)

 

                                                                 牧師 中川  寛

 

 

 

 今年のイースターは4月21日(日)であった。春分の日の後の満月の次の日曜日は復活祭であると決められている。イースターの遅い年は春の到来も遅いと言われている通り、気象異常かと思われるほど寒い日も続いた。それに受難週の災難が世界中で起こった。ノートルダムの火災、高齢者運転による死傷事故、公共バスによる事故など予想外の事故が多く起こり、スリランカ爆発テロ事件も250名を超える死者を出した。世界全体が魑魅魍魎跳梁跋扈する不安な時代と化してしまった感がある。しかしそれでもキリストの復活を祝うイースターのお祝いには特別な意義がある。

 

 

 

 ゴルゴダの丘の上で成し遂げられた不条理なキリストの十字架による処刑は、息を引き取られたキリストの死をもって終わりではなかった。聖書に予告された通り、三日目に死人の中からよみがえられた不思議な出来事により、キリストを拒否し裏切った弟子たちの上に新しい世界が広がった。キリストと共に生活した婦人たちの告知により、遺体の納められた墓所は空であったことを確認した。そして復活の事実が弟子達にも伝えられることとなった。復活されたキリストは愛と赦しの言葉をもって弟子たちと再会され、彼らを新しい希望と喜びに生きるものとされた。彼らにはあの過去の裏切りと挫折の体験が空しいものとなったのではなく、新しい意味と価値をもって宣教活動の指針とし、教会形成の礎とされた。

 

 

 

 教会は主の復活の証人の群れとして新しい人間社会の目標となり基準となって福音を証しする群れとして成長する団体となった。復活されたキリストはまことの弟子たちに愛と赦しを与え、希望をもって生きる事を教えられる。ルカ福音書はキリストと行動を共にしつつ、処刑されたキリストの悲しみを心に留め、故郷に寂しく帰る二人の弟子に寄り添って、主が生きておられる事実を体験させ、再び彼らを立ち上がらせた事実を伝える。復活信仰を得て彼らは生かされる力を得ることができた。これらはすべて彼らの本当の体験から出たことばであったと思われるが、ルカはこのように記す。『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。』

 

 

 

 挫折と絶望を経験し、憔悴しきった心で故郷のエマオへ向かう彼らの思いを再び燃え立たせたキリストの言葉。共にパンとぶどう酒を頂き、かつてのキリストと生きる情熱を体得させてくれた復活の経験はエルサレムに結集した弟子たち一人一人の大きな再生への決断として確認されたのである。ここに私たちの生きる希望があるのである。

 

 

 

 

  4月メッセージ 『月報4月号』より

 

 

   『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか

    知らないのです。』

 

 

                 (ルカ福音書 23章34節)

 

 

       牧師 中川 寛

 

 

 

   イースターの遅い年はいつまでも寒いと言われる。今年は4月21日(日)なので通常より一か月遅い。しかしイースターは確実に春をもたらす。キリストの復活を喜ぶこの時期、世界は新しい希望にあふれるに違いない。混沌として世界情勢もこの福音を通じて安定に向かうと予測される。しかし政治と経済はますます混迷の度を深める。人間の深い罪から来る願望が善きものを否定し自我を優先させるのである。

 

 

 

   聖書は神の子イエスキリストの十字架の死の出来事を正確に伝えている。ゴルゴダの丘に建てられた3本の十字架がそれを表している。真ん中の一本はイエスキリストの十字架である。贖罪者キリストは罪なき身でありつつ、この世の罪の為に宥めの犠牲となられた。贖罪のキリストを通じて神の救いの真理が掲示される。世界が贖われるためには贖罪者キリストを知る以外に救いの道は開かれない。キリストの十字架にこそ愛と赦しの真理が告げられているのである。罪の赦しはキリストの贖罪を受け入れて初めてもたらされる。人類の英知を超えた罪の赦しの愛(アガペー)が照らしだされるのである。人の魂はこの愛に出会って新しくされる。それゆえにキリスト教は十字架の宗教と呼ばれる。ここに救いの根拠があるからである。

 

 

 

同じ十字架に就けられた犯罪人の一人はメシアキリストを見ながら「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と言った。するともう一人の人が「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」とたしなめたと言う。 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったところキリストは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

 

 

神による道理を知る者は自己の醜さと人間の限界を知り、神に至る救いの力に自らを預ける。そこに信仰者の生き方が生まれる。しかし苦しみからの解放を願う者は単なる欲得の生き方から脱する事が出来ない。魂の救済はこの世の道理を知らされて手にすることができるものである。議員や民衆も興味本位にゴルゴダの丘の上に立てられた十字架を見てあざけり、「神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と言ったと記す。兵士たちも「「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」侮辱したと言う。

 

 

 

   人はこの時今一度何が真理で人を生かす福音かを見極めねばならない。しかしその原理はやはり聖書に基づいている事を見のがしてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三月メッセージ  『月報3月号』より

 

 

       『岩の上に家を建てる』

 

                 (ルカ福音書 6章46-49節)

 

 

                      牧師 中川  寛

 

 

 

主イエスは弟子たちを前に多くのたとえで福音を聞いた人々に生き方を教えられた。それは『岩の上に家を建てた人』に似ていると言う。ルカ福音書と共にマタイも同様に記しているが、これは大事なことである。人生は春の嵐に譬えられるが、様々な危機に対処する方策は人それぞれである。誰もが同じように人生の荒波に遭遇するが、すべての人が荒波に飲み込まれる訳ではない。

 

  様々な艱難辛苦を経験しても、無事その荒波を克服し勝利をつかんだ人もおれば、危機を回避して平安無事に生きた人もいる。人生の目標は皆が充実した平安の日々を送る事でなければならない。

 

 

 

  主イエスは身をもってその生き方を教えられた方である。特に若い時から正しい教えに学び、良いものを目指して努力することが求められる。そうすれば人生は各人平等に与えられた機会を生きる事が出来る。特に親たるものは家庭において子供たちの良い手本にならなければならない。人生の基礎工事はまず家庭教育にある。親たるものが何を目指して生きているかが子供の大きな感化力となる。それは日々の積み重ねであって、やがて子供が成人となる時、その努力が結実するのである。信仰は困った時の神頼みではない。

 

 

 

 「家を建てる」とはオイコドメオという言葉から来ている。それが英語ではエコノミーとなり、世界教会主義を表すエキュメニカルの元となっている。経済の語源もまた家を建てることから始まる。家を建てること、それは家族を育成する事であり、血族を永続させることでもある。封建時代の家族主義ではない。武士道の精神でもない。聖書が教える人生を貫徹する人間の各人の目標なのである。それゆえ主イエスは『 わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。』と語られる。今、家が壊れている。家庭が崩壊している。社会が混乱している。世界が不法社会となっている。これらを立て直すのがキリスト者である。それは又キリストの命令でもある。

 

 

 

 春の嵐に身を潜めていては前進できない。成長できない。発展しない。キリストの共同体は今一度キリストと共に「家を建てる」努力をしなければならない。それは信仰の始め初心に立返る事である。

 

 

 

 

 

 

二月メッセージ

 

 

       『神を知るとは』  (ルカ福音書 6章43-45節)

 

                                牧師 中川 寛

 

 

 

人はそれぞれに神の居場所を求めている。その居場所を突き留めても神が神として人に語りかけてくれるとは限らない。多くの人はそれ故に神を信じない。否、神にあらざるものを神とし一時を満足して過ごすことになる。聖書は「神は創造者であり全能者である」と語る。実は人間は被造物であるに過ぎないものだが、不完全であるがゆえにより完全なものを求めようとするのである。

 

 

 

 

    神は人の心を照らされる存在である。その心には善悪の判断基準が明確に示される。福音書はわかりやすくこう語る。『悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(ルカ6:43-49) すなわち口から出る言葉は良い心を持っている時には良い言葉が放たれ、悪い心を持っている時には悪い言葉が放たれる。それによって人が喜ぶ時もあれば言葉によって苦しみ、関係を破壊する。常に良い言葉を放つよう努力したいものであるが、本質的に自己中心である我々は損得勘定を優先する。これが罪なのである。人間が存在するところには常に付きまとう悲しい性(サガ)というべきものである。醜いサガを脱するためにも正しい神を求めなければならない。

 

 

 

 

普遍妥当性を持ち、永久不変の神を獲得するにはどうすべきか。私は神の言葉である聖書を知る事が第一であると確信する。同時に神の言葉である聖書を生み出した教会の本質を学ぶこと、そしてその集大成であり要約である『信仰告白と使徒信条』を知る事に尽きる。教会の伝統には制度としての「教皇制(教職制)」が存在するが、制度的教会は時間と共に変質し、時代と共に堕落する。しかし『信仰告白』は言葉として常に新しい神の恵みをもたらす。さらに伝統としての聖礼典がその意義を増し加える。それらはすべて単なる形式ではない。言葉と共に実態を明らかにする。これを体得することが良い実をもたらす信仰者として時代に光を灯す事が出来る。

 

 

 

 

 現代社会は頼るべき希望の根拠を欠いている。偽善がはびこり、虚偽が世を支配している。人は負けじと悪に走る。結果的には希望の光である幼子さえ犠牲にしてしまう。どこで誰がどの様にしてこの悪しき弊害を打ち破るのか。キリスト者はまず信仰に目覚めて神と共に立上がらねばならない。お金のあるところに人は集まるが、真実な言葉のあるところに栄光と繁栄がもたらされるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 2019年 一月メッセージ(桜台教会『月報1月号』より)

        『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』

                (ルカ福音書 2章21-22節)

                            牧師 中川  寛

   ルカ福音書はイエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時、『天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で降って来た。』と記す。そして『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえたと言う。「聖霊が鳩のように目に見える姿で降って来た」とは誰にでも体験できることだろうか。目には見えないが大きな神の働き掛けがイエスの上に起こったと明言する。キリスト者は祈りの中で聖霊の働きを体験する。熱狂的な異常現象が生ずるのだろうか。そうではない。大いなる善性に触れた時、人には人格的な変化が起こる。真剣に祈る人の感化力が及ぶ。聖霊の働きは人格的な感化力を産む。

 

 

 

人間の感化力は一時的な興奮を生じさせるが、聖なる感化力は生涯に亘ってその人格を聖化する。神が御子イエス・キリストに語りかけられた時、キリストご自身が聖霊によって聖化され、言葉が力を発揮して神の子としての歩みをなさせたのである。私たちも聖霊に導かれた時、祈りは奇跡を産む。通常では信じられない結末をもたらす。神は一人一人の心に語りかけられて、神の業を行う者へと導かれるのである。ナザレのイエスをメシア・キリストであると告白させる力は信仰に基づいてその祈りを実現される。それは神への信頼がもたらす祝福の成果である。祝福の証しである。信仰はキリストにおいて生きた神の恵みをもたらすものとなる。

 

   『信仰・希望・愛』の三位一体は聖なる結びつきをもって相互に私たちを正しい道に導く救いの原理である。キリストへの誠実な信仰が私たちの神関係を糺し、日常生活を神信仰へと導くものとなる。希望に生きる事は将来の可能性を望み見て生きる事ではない。生涯に亘って神への希望を持つことが真の自己実現を可能にする。そうでなければ希望は失望に至り試練によって挫折に至る。愛とはキリストの十字架の愛が根拠となる。贖罪愛が人を正しく導く力となる。これを導く原動力は祈りとみ言葉の習熟度によるのである。

 

 

 

   洗礼を受けてから教会から、又信仰から離れる人が多い。残念なことだが、「自由」についてのはき違いが信仰者を混乱へと導くこととなる。信仰者は信仰の原点に立ち返らなければならない。そして信仰の根拠を自明のものとしなければならない。世の論者によれば2019年から世界は大きな迷路に入り込み、更なる混乱と政治的社会的危機を産むと言う。多くの偽善的言舌が世を攪乱し、世界を混乱へと向かわせる。人心の荒廃は深化し、貧富の格差が増大する。人々は何をもって自己の崩壊を食い止める事が出来るか。信頼の回復は何をもって再建するか。その解決の道は聖書と教会の教理の学びの中に明示されているのである。